blog in 箪笥

やっぱりとりとめもないことを

俳句は実はすぐそこにある

本記事は、Kyoto University Advent Calendar 2019 - Adventarの4日目の記事です。 3日目の記事はsimizut22 さんの D進した - s.t. は such that ではありませんでした。

社会人から博士(社会人博士か否かにかかわらず)というルートにはすごく興味を持っているので、退職エントリ含めてふむふむと拝読いたしました。

ところで 「s.t. は such that ではありません」は575(正確には585)ですね! と言うわけで僕は俳句について書いてみます。

自己紹介などなど

京都大学電気電子工学科卒情報学研究科知能情報学専攻M1です。情報学系ではあるものの特にプログラミングの成果物もないし、このようなAdvent Calendarに参加させていただくのは恐縮の極みなのですが、貴重な機会なので参加させていただきました。お目汚し失礼します。

先日、伊予松山に旅行に行きまして、俳句への力の入れように感心しました。いたるところに「俳句ポスト」なる投句箱があり、小学生の俳句作品が並び、電光掲示板にはコンテストの入賞作品が映る...。

もともと「プレバト」の俳句査定が大好きで、 せっかくだから一句ひねってやろうと思ったところ、捻り終わらないまま帰りの電車となってしまいました。

無念、俳句ポストよ...と思いながら未練がましく「俳句ポスト」と検索してみたら次のサイトがヒット。

haikutown.jp

松山公式の俳句投稿サイト、しかも選者は「プレバト」でお馴染みの夏井いつき先生ではないですか。これは運命だ、俺は俳句を始めなければ、と思い立ち、細々と作っています*1

作りながら、どうもこんなに良い趣味はないらしいぞ、と思ったので紹介させて頂きます。

Twitterも短文だし、みんな定型文は大好きだから俳句と親和性の高い人は僕以外にもいると思うんです。

ずいぶん記事が長くなってしまったので、読むのが面倒な方は「俳句をつくるって一体」だけ読んでいただければと思います。 暇な方は残りも是非。

それから、本記事の主張のだいたいは僕の個人的意見で、話半分に読んでもらうのが安全です。正岡子規俳諧大要』、並びに夏井いつき『超辛口先生の赤ペン俳句教室』をもとに書いた部分もあり、(正岡)などと記しています。そこは信じても大丈夫です。

俳句とは?

俳句とはなんでしょう。季語の入った575? 

それが一般的な定義ですが、以下で異を唱えていきます。

575 == 俳句 ではない

「俳句」 に比べると「575」は随分とポピュラーです。標語やポスターなんかにもよく使われていますし*2Twitterでは#n575とか#a575とかいうタグをよく見ます。n575は「偶然に生じた(natural)575」、a575は「意図して作った(artificial)575」だそうです。

しかし、575がすなわち俳句か? といえばそうではありません。あるいは川柳か? というとそれも違います。

よくある「季語がある575は俳句で、残りは川柳」というような理解も間違っています*3。「575」は俳句にとって大きな特徴の一つですが、必要条件でも十分条件でもありません。

「俳句」のような形のないものに厳密な定義を与えることはほとんど不可能なので、気持ちで感じ取って欲しいのですが、俳句は「美」を表現するものです。

「美」などと言うとドンびいてしまう人もいらっしゃるかと思います。それなら「趣」でも「よさ」 でも「エモ」でもでもなんでもいいんです。「きれい」などの純粋にポジティブな感情には限りません。吐瀉物を見て、えも言われぬ感慨を持つことだってありえます。そんなような場合も、ここでは「美*4」として考えたいです。「心に沁みる、あるいは響くような感動を与える何か」が美です。

「美を表現していること」以外にもう一つ俳句の条件を挙げるとすれば、それは「短いこと*5」です。

短文に濃密な情感を込めようと先人は様々な努力をし、それが俳句独特の表現技法となって「俳句らしさ」を支えています。この、「短い文字列で豊かな表現を」という努力自体が俳句を特徴付けているように思います。

表現技法については後段でより詳しく述べます。

無季俳句や自由律俳句というものがあります。僕自身、高校で自由律俳句に触れたとき、「これはどこを以って俳句と呼べるんだ...」と悩ましい気持ちになりました。次の句などは有名です。

咳をしても一人   尾崎放哉

「575」ではありません。どこが俳句なんだ!

しかしやっぱり「咳をしても一人」という短い文字列から伝わってくる切実な孤独はまた一つの「美」なのです。日本最高濃度の孤独です。

これが俳句の表現です。

まとめると、俳句というのは

  • 短くて(だいたい17文字くらい)
  • 「美」を表現している

というようなものです。

俳句と川柳

比較のために「川柳」 について考えてみます。前述した通り、「季語がある575は俳句で、残りは川柳」は偽です。

川柳はもともと「うがち・おかしみ・かるみ」を掲げていました。witに富んでいる、うまいこと言っている、というようなことですね。

孝行のしたい時分に親はなし    (古典)

などというのも川柳です。

最近ではサラリーマン川柳やシルバー川柳がよくバズっていますが、これらは川柳の初期思想によく合致したものだと言えます。

event.dai-ichi-life.co.jp

「バズる」と言いましたがTwitterとの親和性が高いのも頷けます。

川柳は軽くて明るくて、笑ってしまうようなもの、俳句はしんみりと心に響くもの、くらいに捉えてみるとわかりやすいかもしれません*6

俳句をつくるって一体

「俳句を作ろう!」と思った人がどうやったら俳句を作れるようになるか、それについて書かれた本はたくさんあります。 一方この記事では、一体どういう経緯があれば人間は俳句なんて作るのか? というところから見ていきたいと思います。俳句を作ろうなどとは考えもしない人が大半だと思うので。

日常に詩を得るまで

京大生に人気の「美」として鴨川を挙げようと思います。「美」というと大層ですが、例えば「いい感じの場所」「エモスポット」などと呼んでも同じことです。

ここで一つ、あなたが鴨川にいるところを思い浮かべてみてください。

.......

思い浮かんだでしょうか?

その風景/そこでの体験が心に沁みたので、例えばTwitterにこんな風に呟くとします。

鴨川〜

この呟きは既に「詩」 の性格を持っています。なぜか?

今度はツイートを見る側に立ってみてください。つまり、あなたは家とかにいて、Twitterのタイムラインを眺めていたら「鴨川〜」というつぶやきが目に入った。

そうすると、あなたは(そのツイートに注意を払う気があったとしたら)鴨川の様子を思い浮かべると思います。そして「この時期の鴨川はいいよな〜〜」などといった感想を持ちます。ツイート主とあなたが親密だったとしたら、もっと細かい想像ができるかもしれません。「あいつのサークルはデルタで飲み会をしがちだから今日も飲んでるのかな〜、鴨川で飲む酒いいなあ〜」などと......。

こうしてみると、当該ツイートは

  • 「美」に感動した人(作者)によってなされた表現で、
  • 他者にその「美」を想起させ、
  • 作者の感動を伝える

と言えそうです。「詩」っぽくないでしょうか。(何が詩で何がそうでないかという話ではく、直感的に「ただの呟きも詩としての性格を持ちうるなあ」と思っていただけたら嬉しいです)

詩に普遍性を -introduction

とは言え、「鴨川〜」 が文学作品として成立しているかというと微妙なところです。「鴨川〜」という文字列自体には具体的な鴨川を想起させるほどの力はありません。Twitterでの呟きだからこそ、「自分が呟きを見たちょうどその時(あるいはその少し前)の鴨川の様子」が想像できるのであり、「わざわざツイートするくらい何かを感じたんだな」という共感が持てるわけです。

「鴨川〜」という表現には普遍性が欠けている、と言い換えることもできます。限られた人(おおよそリアルタイムでそのツイートを見た人)しか理解できないからです。

そこで、次には「鴨川〜」に普遍性を加えて、より伝わる表現にしてみたいと思います。

ここが最大の非自明なジャンプです。

多くの人は、つぶやきによって限られた人の共感を得るので十分だと感じるでしょう。むしろ、「俳句」などという小難しい形式を採用すれば、得られる共感は減ってしまうかもしれません。でも、「鴨川〜」はある意味で「詩」なのです。これにちゃんとした形を与えて作品にすることはなかなか良い自己満足になりそうではありませんか?

日記の片隅に書いても良い、うまくできたならどこかへ投稿しても良い。なんであれ、もう少しであなたの呟きは「俳句」になるのです。それって素敵なことではないですか...?

それは例えば何気なく風景の写真を撮った時に、ちょっと加工を加えて「良い感じ」にし、自分が感じた風景の魅力を写真の中に再現しようとするその努力と同じようなものです。

よし、じゃあその努力をしてみようじゃないか、と思っていただいた体で次へ進みます。

詩に普遍性を -experiments

それでは満を持して「鴨川〜」の改良を行っていきたいと思います。

まず、「鴨川〜」だけではいつの鴨川かがわかりません。別に5W1Hを揃えろというわけではないのですが、鴨川の風景を思い浮かべるにあたって時間情報は大事そうです。春の陽の照るのどかな鴨川、夏の夜に語らいの場となる鴨川、秋の夕に寂しさを見せる鴨川、冬の晴れ渡った朝を映す鴨川......、それぞれ全く違った情景です。

f:id:tancematrix:20191204011832p:plain

試しに、作者は夏の鴨川にいたのだとしましょう。

夏の夜の鴨川

これで、鴨川を知っている人なら誰でもイメージが浮かぶ気がしてきます。「なつのよのかもがわ」で9音ですから、あと8音で俳句ができてしまいますね。

「夏の夜の鴨川」だけではなんとなくの風景は想像出来ますが、作者の見た景色や感じた内容についての情報がありません。8音を使って読み手により詳細なイメージを与え、あわよくば自分と同じ感動を味わってもらいたいところです。

例えば、鴨川で何をしていたのかを書いてみます。友達とビール(例えばアサヒスーパードライ)を飲んでいたかも?

夏の夜の鴨川アサヒの缶二つ

一人で物思いに沈んでいたかも? (例えば小石を拾って弄びながら)

夏の夜の鴨川ひとり石を撫づ

自転車で走っていたかも?

夏の夜の鴨川ペダルを踏めば風

これで俳句の完成です。出来は平凡ですが...

日常的な感性と、「俳句を詠む」ことの懸隔が意外に小さいと感じてもらえたらこの記事は大成功なのですが、いかがでしょうか。

俳句の技術

「575 == 俳句 ではない」でも述べたとおり、俳句には色々な技術があります。その多くはやはり「短い文でいかに豊かな表現をするか」に心を砕くものです。

技術を知ることは俳句を鑑賞するときの役にも立ちますし、純粋に面白いものばかりです。あまり文章に長けていない僕が言うのも説得力に欠けますが、普段の文章の執筆に役立つ知見があるかもしれません。

俳句を読む一つのガイドラインになったら良いなと思います。もし本当に自分で俳句を詠みたい方がいらっしゃったら、この記事ではなく有名な書籍を当たった方が良いですが...。

写実

何を詠むにしても、結局伝えたいのは感動した自分の気持ちであることが多いです。「鴨川を見て美しいと思った」「友と語らって胸がいっぱいになった」などなど。

感動を伝えるのには大きく二種類あります。

一つは感動をそのまま表現すること。

もう一つは感動を引き起こした事物を描写することによって、読み手に同じような感動を伝えようとすること。

両者に優劣はありませんが、俳句は比較的後者に向いた形式であるようです(正岡)。17文字で表現しうる感情よりも、17文字で表現しうる情景の方がバラエティに富むからでしょう。

感動・感情をそのままストレートに表現したものとしては、例えば次のようなものがあります。

玉まつり悲しきものと覺えけり   正岡子規

また、同じ正岡子規でも事物を描写したものとしては次の一句が死ぬほど有名です*7

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺   正岡子規

複雑さとしては後者の方が随分勝ります。「鐘」の音、「法隆寺」を含めた奈良の風景...そこで「柿」を食べながら一休みしている、とどんどんイメージが広がりますし、その時の心情は十分に想像できます。

一方「玉まつり...」 の句は内容としては「玉まつり」が「悲しい」、これだけです。玉まつりというのは魂祭、すなわち先祖を迎え、送る祭りです。

先祖の死というものに向き合ったとき、一切の技法を捨て「悲しいと思った」と率直に述べるのがいかにも切実な印象を与えます。僕はこちらもとても好きです。とは言え、これはかえって超高度な技法です。「悲しい」などという感情は平凡なものですから、それを平凡でなく表現するのはなかなか難しい。

写実においては、初心者でも玄人を唸らせるような句を作りうる、と正岡先生も述べています。

ハイコンテクストな表現

限られた文字数でそれ以上の表現をするには、ハイコンテクストな表現を用いるしかありません。 ハイコンテクストというのは、書き手と読み手の間で多くの前提を共有しているということです。

例えば、先ほどの「鴨川」が良い例ですが、割と簡単に俳句ができてしまったのは「鴨川」がハイコンテクストな単語だからです。

京大生であればほとんどの人が鴨川をイメージできますし、それなりに多くの人が鴨川にまつわる思い出を持っていることでしょう。それを文脈とすることで、「鴨川」の一単語で比較的豊かな情景を喚起することが可能になります。 これも「名所を詠む」という俳句の1技術と解釈できなくもないかもしれません。

伝統的な技法の中にも、ハイコンテクストな表現を用いるものがあります。

季語

季語はもともと和歌の「題詠」から来ています。すなわち、◯◯をお題として和歌/俳句を詠みましょう、ということです。今でも、俳句の投稿コンテストなどでは題として季語が指定されていることが多いです。

そんなわけで、季語を「技法」として捉えることはあまりない気がします。

しかし、なぜ季語がルール化しているかと言えば、季語を使うことで表現がより良くなると考えた人が多数派だったからです(夏井)。「表現をよりよくするもの」それは「技法」と呼びうるのではないでしょうか。

さて、季語がなぜより良い表現につながるか。大きく二つの理由があるように思います。

一つ目はそれが「ハイコンテクスト」だからです。季語というのは季節を感じさせる事物で、多くの俳人が句に取り入れてきたものの総体です(夏井)。だからその歴史の中で相応の「文脈」を獲得しています。

素人にはちょっと意外なのですが、季節を感じさせればなんだって季語かというとそうでもない。あるいは、年中存在するものでも季語として詠まれてきた事物はある季節を代表することもあります。

例えば、「滝」は夏の季語です*8

滝落ちて群青世界とどろけり  水原秋櫻子

そんな! と思うんですが、これが逆にメリットを持ちます。すなわち、季語は多くの俳句に詠み込まれてきた歴史がありますから、「滝」という季語には「夏、緑が眩しい山奥で落ちている滝」のイメージ(那智の滝とかをイメージすればいいかと思います)が染み付いているわけです。これは鑑賞者にスキル(というか沢山の俳句の鑑賞経験)を要求しますが、表現者としては都合がいいです。一語で豊富なイメージを喚起できるからです。

季語のもう一つの効果としては、前述の写実の要素を自然に取り入れることができることが挙げられます。

何か現実世界の事物を表現するとき、少なくともそれが「どの季節か」を明確にすることは写実的な表現に必須です。そのようなことを根拠に、正岡子規高浜虚子といった一派が「季語はちゃんと入れろ!」と主張しました*9。これが容れられて、今でも「季語は入れた方が良い」が一般的となっています*10

切れ字

小学校〜高校で「俳句を作りましょう」と言われたらとりあえず加えてみる「や」「かな」「けり」。

これらは「詠嘆」と簡単に紹介されがちですが、なかなかハイコンテクストな代物です。

特に「や」は暗黙のうちに「ありったけの想像力で情景を思い浮かべろよ〜〜! 思い浮かんだか〜〜〜? 次からカメラアングル変えるぞ〜〜!」というようなメッセージを持っています。例えば

さみだれや大河を前に家二軒   与謝蕪村

この「さみだれや」は別に「五月雨が降っているなあ」ということではないのです。「さみだれや」を受けて、読み手は五月雨が降りしきるのを想像します。想像し終わったところで、「大河を前に家二軒」と具体的な視覚情報が飛び込んできて、あらかじめ想像した情景とあわさって壮大さを得ます。

ぜひ、次から俳句を読む際に「や」 が出てきたらそんなような気持ちで鑑賞してみてください。

古池や蛙飛びこむ水の音     松尾芭蕉

も同じように鑑賞できます。どっちかというと蕪村の句の方が良いように思いますね*11

冗長性の排除

ハイコンテクストな表現を使えば、短い文字列でゆたかな表現ができることを述べてきましたが、そもそも無駄な表現をしないことも俳句においては大切とされています。

これはプレバトを見れば毎週楽しみながら学べるのでオススメです。

www.mbs.jp

ちなみに夏井先生は冗長性の排除について「むしろ理系とされているような人に向く作業である」というような趣旨のことをおっしゃっています。

夏井先生のような添削を僕がやるのはおこがましいんですが、そのまま引用するのもまずそうなので、なんとか自分でやってみます。

先ほどの「鴨川〜」の 例を考えてみると、例えば「友達とビールを飲んでいる」設定では

夏の夜の鴨川友とビール飲む

などとしがちです。「ビール飲む」が冗長なのがわかるでしょうか? ビールはありゃ飲むからです。*12

それから、「ビール」 は夏の季語なので「季重なり」と呼ばれる季語が二つある状態です。これは解消するのが望ましい*13ですが、多少形式的な話なのでそこはスルーしておきます*14

「飲む」を削ると二文字余るのでどこかに情報を加えることができます。僕はより具体的なイメージが湧くように「缶」を入れたいな〜と思いました。

夏の夜の鴨川友と缶ビール

ん〜〜、「友と缶ビール」では何を思い浮かべたら良いのかわからないので、焦点を缶に絞ってしまいます。

夏の夜の鴨川二つの缶ビール

お前のと、俺のと。(一人で二つ飲んだ可能性が出てきてしまいますが、それはそれで良いでしょう)

あとは、「ビール」より「アサヒ」とか言った方が情報量が多いので*15

夏の夜の鴨川アサヒの缶二つ

とこうしました。どうでしょう...

発想が凡庸なので平凡な句ですが、凡庸な発想の表現としてはそれなりにまとまっている気がしています。

本当に俳句を作ろうかなと思ってくれた人へ、そして参考文献

俳句とは575ではない、季語ではない、と言いました。しかし、マジで作るなら575も季語もちゃんと守ってください。その方が良いものができると夏井先生も仰っています。

季語は「季寄せ」あるいは「歳時記」にいっぱい載っています。四季があることは今後日本の一番の強みになっていくのでぜひ手に入れてみてください。

最後に参考文献かつオススメの入門書を。

正岡子規俳諧大要』岩波書店; 改版、1983

夏井いつき『超辛口先生の赤ペン俳句教室』朝日出版社、2014

Twitterには俳句を延々と呟くbotがたくさんあるのでフォローしてみると楽しいです。気に入ったら図書館、そして書店へぜひ。

長々とお付き合い頂きありがとうございました。

Next blog!

5日目の記事ははなまさんの『ウイスキーはいいぞ』です。僕もスコッチが好きなので共感しきりでした。

ラストに紹介されたエッセイも最高なのでぜひチェックしてみてください。

ウイスキーすつくと立てる夜涼かな  高田風人子

買ひ来てし瓶はアイラの潮に満つ   たんす

casta46.hatenablog.com

*1:なお、僕は締め切りを守るのがめちゃくちゃ苦手で、これまで3回くらい投稿用に俳句を作ったんですがどれもうっかり締め切りを逃してしまいました。同じような理由で後期の単位も落としそうです。

*2:下の標語は僕が高校の時に作ったやつです。賞品で自転車をもらって、今でも乗っています。

*3:これは現代においては間違っていますが、歴史的にみて間違っているとは言い切れません。俳句は今のように自由ではなく、「575」に強く縛られていましたし、季語はほとんど必須だったようです。そんな中で、俳句から派生した川柳は「季なし俳句」と呼ばれることもありました。

*4:美について定義するのはまた難題ですし専門外です。ここも気持ちで感じ取ってください。読者に頼ってばかりで申し訳ない...

*5:自由律俳句があまりメジャーでない以上、これはほとんど「575」であることと同値です。結局「575」は俳句の必要条件じゃないか、と思われるかもしれないですが、「575」という形式は(いまや)重要ではなく、短文に情報を盛り込もうという努力自体が俳句の特徴である、というような主張です。

*6:わかりやすさは往々にして嘘をはらみます。川柳にも俳句と同じく写生美を追求するものはあり(cf. 井上剣花坊「咳一つ聞えぬ中を天皇旗」)、境界は難しいです。身も蓋もない話ですが、最終的には作者が「俳句」として作るか「川柳」として作るかに帰される問題かもしれません。

*7:wikipediaにこの句のページがあった、びっくり。 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 - Wikipedia

*8:小学校の頃、授業で「滝落ちて...」の句の季語は何か、という問題が出されました。みんな悩みましたが、優秀な同級生が「作者の名前って季語にはならないですよねえ...?」と発言したのが記憶に残っています

*9:これは当時、季語や575といった俳句の制約を破るような新しい俳句の手法が流行り出したことに対する反対意見でした。制約を取り払おうという一派と残そうという一派が争って後者が勝つのはなかなか珍しいのではないでしょうか。これも「季語」が相応に表現上のメリットを持っていたからだと思います。

*10:もちろん、現代にあっては季節を感じさせない、でも写実美を有する事物も多いと思いますし、無季や自由律もそれぞれ技法として探求されています。

*11:正岡子規曰く、「古池や...」は松尾芭蕉が己の境地に至った記念すべき一句ではあるものの、芭蕉の作品の中でこれが特に秀でているわけではない、と。そう言われてみればそんな気もします。(権威に弱いので)

*12:余談ですが、「ビール飲む」というように普段省かない助詞を575のために省くのはダサくなりがちです。「ビールを飲む」 と余らせた方がましだと思います。(僕も初心者で、今「字余りかっこいい期」なのであまり信用しちゃダメですが)

*13:季語は先ほど述べたように喚起するイメージの量が大きいので、二つあると読み手の意識がごちゃごちゃする、というのが主な理由です

*14:「夏の」が冗長だと考えて三文字余らせることもできます。

*15:形式的には季重なりも解消できます。ところで僕はサッポロが好きです。