blog in 箪笥

やっぱりとりとめもないことを

大文字山俳話、あるいはスーパーカブに乗った友人とのランデブー

これは半分くらいほんとの話なんですけども。

Sは春の夜をスーパーカブに乗ってやってきた。 彼は大学時代の後輩で、一度は東京に働きに出たが、なんやかんやあって京都で再会することになった。待ち合わせは東山今出川であった。

カブがコココ...と新品らしい清潔な音をさせて停まると、Sは挨拶もそこそこにカブの自慢を始めた。車体が軽いから、歩道を押して歩くのも簡単なのだ、とそんなことを喜んで話す。

僕は僕で、最近はずっと俳句にはまっているから、相手にかまわず俳句のことを話す。

最近、ずっとほしかった歳時記を安くで手に入れたんだよ~...そうなんすね、俺はキャンプ用品買ったんですよ、この子(カブ)に乗せていこうとおもって...そうなんだ、その歳時記は3巻構成で俳句も短歌も載ってるところがいいんだよ...

で、けっきょく、Sの方が大人だったのだな、俳句の話をしてくれることになった。


「俺は俳句について文章を書いて生きていきたいよ」

「じゃあそうしたらいいじゃないすか」

「俳句のこと書いたって、万が一日本で最も良い俳句評論家になれたとしたって食っちゃいけないよ」

「読者少なそうですもんね」

「少ないどころの話じゃない、いないんだよ。だいたい、短歌と違って、俳句 には純粋な読者がいない」

「なんでなんすかね~? 短歌は人気がある?」

「少なくとも一部にはある。俵万智が出たのがでかいよ。あれで現代の大衆を掴んだ」

「なるほど。でも俳句も大衆に受けちゃあいるんじゃないですか? 短歌より作り手多いですよね」

「そうなんだよ! 作り手は多い。でも読み手はいない。作り手ですら他の人の句をちゃんと読む人は一握りなんだから」

「それはなんでなんでしょう? 俵万智みたいなスターが出てこないから?」


言い忘れていたけれども、我々は夜の大文字に登ろうとしているのである。大文字は行ったなりで登れる気やすい山だが、夜は暗い。怖いというわけでもないけれども、話し続けていないと心もとない。 鳥獣の鳴き声はほとんどせず、ただ何となく夜の山の匂いと音が風に乗ってくる。それで、われわれは俳句の話をしているのである。


「出てないことはないんだよ。直情型ヒロインみたいなタイプの俳人はいたし、それなりに受けた。でも現代の大衆には届かないんだ」

「なんで?」

「なんでかな。たとえば、短歌は一つのファッションとして機能するよね。文学に浸る自分を実現するための。わかる?」

「わかりますよ、煙草と本を一緒に撮ってSNSに上げるやつでしょう」

「君もちょっとそういうところがある?」

「失礼だな」

「それでさ、短歌はそういうところがあるんだよ。別に悪くいっているわけじゃないよ。文学を楽しむということと、文学っぽさを楽しむことは簡単に切り分けられるものじゃないし、沢山の後者がいて前者が存在できるんだから。むしろそうじゃないということが問題なのであって」

「俳句だってファッションなんじゃないですか。有閑マダムとかがワタシ嗜んでますわよ、という」

「それだ! だから、俳句を鑑賞することじゃなくて作ることがファッションになってしまっている」

「もうちょっとで大の字につきますよ」

「階段きついな。なんで読むことがファッションにならないんだろう」

「もうおじさんだから太ももがつらいっすわ。読むことをファッションにしたいんですか?」

「そうとも言える」

「やっぱり『エモい!』を出さないと若者のファッションにはならないんじゃないですか。『風流』とかだとねえ」

「別に現代俳句は『風流』とかではないんだが。ついたな」

「つきました」


大文字からは京都の街が一望できる。信号の明滅、寺社の闇、明るい、また暗い建物のかたまり、向かいの西山。 Sはそそくさと折り畳みキャンプ用椅子を取り出して優雅に瓶ビールを飲み始めた。


「いつ来てもいいですね...。なんか飲みましょう」

「なんにも買ってねえや、一口おくれ」

「しょうがねえな...」

「俳句は断じて風流ではないんだぞ」

「はいはい、酒を飲め、酒を」

「かたじけない...。しかし風流ではないぞ」

「椅子、座ってみますか?」

「いいや、こけたら怖いから。聞いてくれ。芭蕉が風流だったとしたら、それは風流が当時の最先端の感覚だったからで、懐古趣味的なものではないんだ、俳句は。すくなくとも懐古趣味的でないものも多い。『エモい』でくくれるようなものもある」

「しつこい人だ...。じゃあなんで大衆に受けないんですか」

「そこなんだよ問題は...。これは仮説だけど、俳句には積極的な解釈が必要だからじゃないかな」

「積極的な解釈とな」

「短歌は十分に長いんだよ。俳句は短すぎる。たとえば

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

とか

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

とか、短歌はひとかたまりの出来事を説明しきることができる。ときには心情 を述べることすらできる。そうしたら、読者が抱くべき感情というのは考えなくてもわかるじゃん」

「エモいってことですか?」

「『エモい』に集約してしまったら元も子もないけど、まあそういうこと。読者の心情の落としどころは明らかだよね、言語化するしないに関わらず。何とも言えない感情になるけど、その感情は自動的に得られるいうかんじ」

「諸説ありそうだけど見逃してあげます。俳句は?」

「短すぎるから、出来事の断片しか言えない。

荒海や佐渡に横たふ天の河

どう思った?」

「少なくともエモくはないすね。でもやっぱり風流なのでは? 自然を愛でる心じゃないですか」

「そうじゃないんだよ。もっと感情移入してよんでくれ。荒海~どっぱーんざざーん。潮の匂い。遥か向こうに朧げに佐渡島。見上げれば? 天の川ふぁーー! だよ」

雄大ってことですか」

雄大もそうだし、むしろその情感そのものなんだよ。そこにいるということ」

「とは?」

「別の例を挙げるとするならばだね、

春山を来れば京都は夜に浮かぶ

と今詠んだとするとこれはどんな俳句?」

「今のわれわれじゃないですか」

「そう! 風流とかエモとか関係なく今、ここ現実の感触なんだよ。そういう風に読んでほしいわけ。で、これは今この場で読んでるから君に伝わってるけど、これが赤の他人にも伝わったら良い俳句なんです」

「これはいい俳句なんすか?」

「自分で作ったからわかんねえな。とにかく、俳句はかなり自分から分かりに行かないと良さが見えてこないし、そうじゃないと、風流とかそういうつまらない概念に簡単にまとめてしまうことになる」

芭蕉ですらそうってことですか」

「それは諸説あるな。芭蕉から紆余曲折を経た現代俳句の一般的な読み方がそうであるというだけで、芭蕉の句を今言ったふうに読むのは本来は正しくない。荒海の句も寝床で詠んだらしいし」

「なんだ」

「でもそういう邪道の読み方でさえ素晴らしさを保つのが古典なんだよ」

「古人、半端ないすね。え、それで、じゃあ、俳句がはやってないのは読むのが難しいからってことが言いたいんですか」

「そうかも。一目でわかんないし、どう読むかを自分できめないといけない」

「短歌だってそういう面はありますよね」

「ある。あるが、短歌はどう読むかを決めないでも読むことができる。その程度の長さがあるんだよ」


話は途切れ、Sは煙草を取り出した。


「下山しますか」

「そうしよう」

復路というものは随分短く感じられるものである。われわれは黙々と山道を下り、あっけないくらいすぐに登山口にたどり着いた。


「バイク、乗って帰るの」

「いや、押して帰ります。ビール飲んじゃったんで。この子を押すのは苦じゃないっすから」

「悪かったね」

「いや...。途中まで一緒にいきましょう」

「うん」

「思ったんすけど」

「...」

「頑張って句を理解して、いいとか悪いとか考えるのはエモくないっすね」

「...」

「こんど一緒にキャンプ行きましょう。この子意外と沢山荷物乗るんすよ」

「いいね。俺、キャンプ用具とか持ってないけど」

「男一人分くらいなら貸してあげます。ぜひに」

「そりゃぜひに」

「じゃあ、俺はこっちの道なんで。また近いうちに会いやしょう」

「うん。元気で」

「そちらこそ。キャンプいきましょうね」

そうしてわれわれは別れた。キャンプへはまだ行っていない。

春の闇言ひ残されしこといくつ

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春の月


謝(罪の)辞

S君は実在の人物をモデルにしたものだけど、話した内容はほとんどが嘘っぱちです。Sのモデル氏、ごめんね。だから、Sと本人の間には何の関係もないです。フィクション。

二つ出てくる短歌は俵万智のもの、「荒海」の句は松尾芭蕉の句、あと二句は自分の句です。

「荒海」の句は、十全な解釈としては佐渡と自分を隔てるイメージと、天の川が織姫彦星を隔てる(間に「横たわる」)イメージを重ねるのが正解だと思います。ここで「僕」が言ってるのは、情景を素直に受け取っても鑑賞が可能だよね、ということにすぎません。