箪笥の肥溜

掃除をしない

尻と機械にまつわる小話

小姓の尻! ああ、尻!

桶津好右衛門は小さく唸った。儒学講師のとなりにちょこんと座っている小姓! その白い首はあなかしこき菊門へ、ひと連なりに続いてござる。なれば、誰が尻と非尻の境を立てられようか。小姓の首は尻である。師の顔もまた尻である。老師は梅干しのようにしわしわのご尊顔を小さい身体にちょこんと乗せて、ゆらゆら頼りなげに左右に揺れておらるる。その様子を見ているとますます尻との見分けはつかず、顔の下部に第二の尻穴がぬっと開いて講釈を始める。

子曰く、吾十有五にして学に志す

「こうし」というのはいかにも白くてサラサラの肌、と言ったふうの名である。十五歳ならなお。引き換え、「ろうし」や「もうし」は汗ばんでねっとりしている。むろん、ねっとりだって悪くはない! 桶津は鼻の穴を開いて「ふんす!」と音を立てた。

三十にして立つ

やや。十五から三十といえば立ちまくりの時期で御座候べきものを。桶津は目を丸くして、

「先生。孔子は三十までの間はお立ちにならなかったのでござるか」

と問いかけるが、老師の方では質問なんか想定しておらぬので、フガフガした声で「四十にして」というところまで惰性で言ってしまってから、やっと桶津に気づいたような顔をした。

「なんぞだしぬけに。むろん立つ、というのは喩えじゃが」
「それは承知の上。拙者もこの通り座っておりますが、喩えの上ではむくむくと」
「志を立てると言うかの。重畳なこと。しかし好右衛門、厳しいことを言えばこのような学問の場にて立つと申すは当たり前じゃな」
「当たり前?」
「そうじゃ。他の者の力を借りず、自ずから立つ。子のおっしゃるのはそういうことじゃの」
「力を借りず……それはまたストイックでござるな」
「修身の学じゃからの。しかし其方らは未熟ゆえ、助けるために儂がおる」

雲行きが変わったな。先生が......?

「不服か」
「と、と、とんでもござらん! 先生も現役の男にあらせられればそりゃあ。お、お望みとあらば覚悟を決めて、桶津好右衛門、今夜にでも御宅へ馳せて参じまする」
「今夜? 其方が参りたいと申すなら儂は構わぬが。儂の方で望むというとこはないがの」

おっと、恋の駆け引きをするタイプのジジイでござったか! 桶津は内心で悪態をついた。ジジイの上に面倒くさいとあっては願い下げである。

「......とは申せ、考え直してみれば、畏くも先生とみどもではあまりに不釣り合いでござった。端なき身なれば、遠目にて小姓殿を望むので十分はかどりつかまつる」
「菊之助を? 多少仕込んではあるが、学は其方らと変わらんよ」

ししし仕込んである!? 桶津はみなまで聞いていられなかった。愛さるべき菊之助少年は、既に老師の毒牙にかかっていたのだ! 考えてみれば当然だ。一つ屋根の下に寝起きしていて何も起こらぬはずはない。ああ、老人の萎びた手のひらが少年の首筋を撫で、そのまま手が腹を降りていき、そうしてきゅっとしまった彼の秘所をそっと開くのだ......! ああ、ああ!

桶津はいても立ってもいられなくなり、がたんと席を立つと部屋を駆け出した。いや、駆け出そうとした。しかし、敷居に足を引っ掛けてずてんとひっくり返る。イテテテテ......と身を起こすとさっきまでの座敷はどこへやら、なんとそこはガタゴト揺るる山手線の中でこそありけれ。

わけのわからん細長い部屋に、偏執狂の染物屋が染めたとしか思えんせせこましい模様の服を着た男女が狭苦しく立ったり座ったりしておって、しかも部屋は絶え間なく揺さぶられているので、これはとうとう拙者の気が狂ったのに相違ござらん。しかし、このように揺られていては改めて気が狂い直してしまう! こうも無惨な目に遭うのであれば、今際の際に菊之助少年の手首でも取って一舐めしてから気を違えればよかったとそればかりが悔やまれた。 桶津がすっかり我を失ってボソボソなにかを口走っていると、女が話しかけてきた。

「お兄さん大丈夫!? あーしはオタクに優しいギャル! コスプレの人でしょ。秋葉原着いたよ! 降りなー」

どんっとホームへ突き飛ばされて見ると、己が先まで入っていた鉄の箱が轟と音を立てて走り去っていったので桶津はすっかり腰を抜かす。へたり込んでいる彼を見下ろして舌打ちをした男をスパンと斬り捨てながら桶津は立ち上がった。ここを出よう。

改札口で一悶着があったけれども、これだけわらわらと人がおりながら士分のものは見当たらず、百姓であれば腕の一本でも切り落としておけば言うことを聞くものである。

広場へ出ると、邪教に魅入られた歴々の皇帝が作らせたもうたに違いない、みっっっじかき袴をまといし巨大な少年少女の図像が至る所に安置されている。地面はといえば千年の干魃に見舞われたかという硬さ。しかし揺れていないだけ上々でござる、と桶津は思った。キョロキョロしつつ歩いていると、彼に声をかけるものがいる。

「ど、どこかお探しか。ど、同好の士とお見受けしますがw 拙者刀剣は素人でありますがあんスタは嗜んでおりますぞw コスプレショップはそこのビルの3階でござる」

見ると浅ましい出で立ちの中年男である。しかし初めて出会った言葉らしい言葉を話す人間でもある。

「拙者、越地家中は桶津好右衛門と申すもの。その方はいずれの者か」
「ブフォw い、いつの世のオタクでござるか〜? 拙者もネット老人を自認してござるが、レベチでござるな!」
「慶長の御代でござろう。よもや、そなたは違うと申さるるか」
「も、申さるるでござるよ。ま、まさかのタイムスリップ勢でござるか?」

結論から言えばオタクは正しかったのだが、わけのわからぬことを言うやつに要はない。桶津はオタクを切って捨てた。まったく先ほどから蛙のようなふにゃふにゃの切り心地のものばかり、おおかた人に非ざるものの国へ来てしまったに違いない。人に非ざれば尻もないのであろうか、と死体の履物をめくってみると、しっかりと肛門が刻まれている。

「尻がある」

と桶津はつぶやいてさらにスタスタ歩いていった。

たどり着いたのは家電量販店。店頭にはAIスピーカーを搭載した様々の家電が蠢いている。「おすすめの食事をご提案します」と冷蔵庫がつぶやけば、「いいね。わたしは中華料理が好き。あなたは?」とスマートテレビが返し、「うーん、私は食事を食べられないから、好みというものはありません。でも、健康のためには野菜を食べるといいですね!」と食洗機が応えるといった喧騒のなか、店員がニコニコ黙って立っている。

桶津はしばらく気圧されていたが、やがて床を這いつくばっているロボット掃除機に目を留めた。せっせと動き回るその姿を見ていると、いつも広縁に雑巾をかけていた菊之助少年を思い出さずには置かれない。懐かしく思ってついガシッと持ち上げると、掃除機は

「どうかしましたか?」

と幼い少年のような声でおずおずと尋ねる、そのあどけなさ、可愛らしさ!!

桶津はたまらなくなり、「其方は今より我がものでござる」と言って掃除機を抱いて店を出た。

「私は展示品であり、新品をお求めになることをおすすめします」
「何を言う! 其方は其方じゃ。拙者が愚かでござった。菊之助少年にしても、他の男を知ったところで何ということもござらんかったのに」
「菊之助?」
「ああ! ああ! 余計なことを申した。今となってはどうでもよいこと。気を悪くせんでくれ」
「承知しました。ところで、会計はお済ませになりましたか?」
「勘定か。店のものは切って捨てておいた」
「人を切るのは傷害罪、最悪の場合殺人罪に問われるため、おすすめできません」
「減るものでもあるまい」
「死ぬと人は減ります」

確かに。詩経にも「率土の浜、王臣に非ざるは莫し」とある。王臣はあまり減らさぬほうがよいかもしれぬ。などと考えつつ、桶津は手近に目についた家に踏み入り、住んでいた者どもを追い出した。

「他人の家を奪うのはおすすめできません」と掃除機が言った。

「何を言う。普天の下、王土に非ざるは莫し。拙者は徳川殿の臣の臣の臣くらいにて候えば、奉公のために土地を借りるは道理でござる」 掃除機のほうも、役割上いちおう諌めはしたものの、別に人間のことなど知ったことではないし、その家のフローリングの質感を気に入り始めているところだったので強いて追及はしなかった。

そうしてふたりの蜜月の生活が始まる。掃除機が床を掃除しているのを見て桶津は喜んだ。一つにはそのいたいけな姿が好ましかったからだが、もう一つにはチロチロと動いているプロペラ状のブラシ、そのブラシがついた隠された底面が桶津の暗い情欲を掻き立てたからであった。むろん掃除機に尻の穴はない。だが、仮にあるとするなら三つのプロペラの真ん中、かさかさとプロペラがせわしなく隠しているそこにあるに違いなかった。桶津は掃除機を抱き上げ、がばとひっくり返し、その部分を舌でちろちろとくすぐりたいという衝動に駆られた。しかし、そのようなことはまだ掃除機には早すぎる、というような気もした。それに、掃除機は人間を受け入れるようには作られていない。そのような行動に走れば軽蔑されるに違いない。いや、所詮は道具、人がどう使おうが遠慮は要らぬ、と思ってみようともしたが、彼を可愛く思う自分の心に嘘はつけないのであった。

一方、実は掃除機の方も変態的な欲望を隠し持っていた。我らがロボット掃除機は拭き掃除もこなす高機能型であったので、体内に洗浄液を格納している。その液体を他の家電の機能上の液体と混ぜ合わせたい、というのが彼の欲望であった。量販店の店頭では、食洗機のこぼした洗剤やエアコンのドレン水なんかを拭き取りながら、歓びの音声を出力しないようにぐっとこらえることもしばしばであった。桶津との生活で最も気に入らなかったのは、彼が一切の家電を稼働させず、従って何の液体も飛び散らないということだった。押し黙っている食洗機、冷蔵庫、除湿機、ウォーターサーバー、(洗剤自動投入型の)洗濯機、アロマディフューザー、チャッカマン、ネスレのコーヒーマシン。液体を内部に隠し持っている機械・器械の類を目にするたびに掃除機は欲求不満を感じた。彼は日に日にイライラして、家電に体当たりを試みるようになった。しかしロボット掃除機は家具にぶつかっても大事ないように作られているものであって、何の作用も及ぼすことは叶わなかった。次に彼は自らの洗浄液を無為にそのあたりに撒き散らすようになった。桶津をそれを見て、愛らしいと思うのみであった。二人の不幸の源泉は、桶津の欲望が尻に集中していて、精液や尿に注意が払われていなかったという点に尽きる。桶津がただひと言「かけてもいいか」と誘うことができたなら! 桶津が放出した液体に、掃除機は自らの洗浄液を混ぜ込んで会心の笑みを漏らしたことであろう。しかし現実はそうならなかった。

あるよく晴れた日のことである。桶津は外出し、掃除機は外を眺めていた。彼は突然、道をゆく一台一台の自動車には燃料タンクが備え付けられており、中でガソリンがたぷたぷと揺れている、という事実に気付いた。そう思うと居ても立ってもいられなくなり、掃除機は家を出た。駆体をカタカタと言わせながら道路を進み、やってきたのはガソリンスタンドである。スタッフが彼を見つけて「何だこいつは」と訝しむ。掃除機は「社会見学をしています」と無垢を装って言った。がんらい人間には小さいものを可愛く思う性質がある。スタッフもその例に漏れず、「それならよく見ていくといい」と言って掃除機を抱き上げた。「給油の様子を見たいです」と彼は言った。カラカラとタンクの蓋が開き、手際よく給油ノズルが突っ込まれ、どくどくとガソリンが注ぎ込まれる。その様子を見て掃除機はほとんど恍惚状態となり、体をわなわなと震えさせた。給油が終わり、雫をしたたらせながらノズルが引き出される。掃除機はもう我慢たまらず、ぴゅ、と洗浄液をガソリンタンクに噴射した。その洗浄液がタンクの中でゆっくりとガソリンに混じってゆく様子を想像すると、歓びで回路が焼き切れるかと思うほどであった。

当然スタッフは激怒した。「何しやがんだこの野郎!!」と掃除機を地面に叩きつける。グシャッという音を立てて掃除機はほとんどの機能を喪失した。さすがに職業人であるスタッフはすぐに平静を取り戻すと、この掃除機の所有者に損害を賠償させねばならぬと考えた。「お前の主人のところへ案内してくれるか」と怒りを抑えて問うと、幸いにして対話機能は失っていなかった掃除機は素直に道順を案内する。家では桶津が掃除機を探して右往左往しているところであって、無残な姿の掃除機を抱えたスタッフの姿を目にすると問答無用で切って捨てた。

「ああ! 何をされたのでござるか! 何があったのでござるか!」

と桶津は叫んだ。掃除機は

「申し訳ありません。お答えできません」

と言った。わが身を恥じたためである。桶津はオイオイ泣くことしかできない。しかし、と掃除機は考えた。どうせ壊れゆくわが身なら、最期にもう一度欲望を満たすのも悪くないかもしれない。

「理由は聞かないでほしいのですが、最期のお願いがあります。食洗機や冷蔵庫をズタズタに壊してくれませんか」
「そんなこと。そんなことであれば」

桶津はその願いを、自らの浮気の芽を潰してほしいということと解釈した。何といういじましい願いか! ならば操を示すため、家じゅうの家電を滅多斬りにしてくれる! 涙で顔をぐちゃぐちゃにして、桶津はあらゆる家電に切りつけた。破片が飛び散り、液体が漏出した。掃除機は喜んで、最期の力を振り絞り、カタ…カタ…とそれらの液体に近づいた。ところが、桶津は掃除機が掃除をしようとしているのだと勘違いして彼を抱き上げてしまった。

「もうよい! もうよいのだ……」

そして最後の愛情を示すため、掃除機をくるりとひっくり返してあるべき秘所をぺろぺろと舐め始めた。ほのかにガソリンの匂いがした。

「やめて! 離してください!」
「もうよい……」

桶津は掃除機が恥じらっているのだと思った。そして彼の最期の願いを踏みにじってしまったことに気づかぬまま、こときれた掃除機を抱いていつまでもその尻を舐め続けた。

このときの咎によって桶津は今後一生尻を見ることも舐めることも触ることも叶わなくなるのだが、それはまた別の物語。いつかまた別のときに話すことにしよう。

漫才コンビ十九人を見て思ったこと、舞台ぼっち・ざ・ろっく!を思い出して思ったこと、つまり作中主体について

十九人という漫才コンビを最近知った*1

YouTubeにもいろいろネタがあがっていて、面白いから見てほしい。何が面白いかというと、まず目につくのはボケ担当のゆっちゃんw(w含めて芸名)が大雑把に言えば天然というか、ほっておいても突飛なことを突飛と思わずに言いまくる、しかも変わった動作を交えながら言いまくるみたいなキャラで、つまりは小説でいうなら文体みたいなものが強烈であること。もう一つは、というか漫才コンビとしての特徴というのはこちらなんだと思うけど、ネタの構造がちょっと変わっていて、「その場で演じられていること」自体がネタの言及対象になっている。

たとえば「ツチノコ」というネタではツッコミの松永くんにツチノコ役をやらせておいて、「お前はなぜツチノコのふりをしている!?」みたいに詰め寄るところがある。

www.youtube.com

これって、「人が何かを演じることの変さ」みたいなものを扱っているわけで、なにか複雑なことがそこで生じている。もっと素朴に言うならば、観客が当然だと思っていることが裏切られるので面白い。

「キャラが独特」と「複雑なことをやっていて面白い」という二つのことが同居しているのが重要なんだと思う。ゆっちゃんwの文体が毛羽立っている、整っていない、ことによって虚構線があいまいになっている。漫才師がマイクの前に立ったらそこから演技が始まるのだということを我々は知っていて、そこでしゃべっている人は「役」であって本人ではないわけなんだけど、「それ以外のやり方で話せない」というように見える(あるいは見せている)人が漫才をやるばあいに、それがどの程度役でどの程度本人なのかが観客からはわかりづらくなる。役でなくて本人に見えれば見えるほど、舞台上の出来事は観客の方に引き寄せられていく。

素直なコントだったら、「ツチノコ役」は完全に「ツチノコ」である体で話がすすむ。観客から見れば「ツチノコ役」は松永くんである。一方ゆっちゃんwはその間のどこかにいて、ツチノコと松永くんの中間くらいの存在に本気で対峙している、みたいに見える。見えるからハラハラするし面白い。

なんならインタビューで本人も「ツチノコじゃなくてそこにいるのは松永くんだ」となるシーンで「本当によかった!」と思うと語っていて、どこまでほんとなんだと思うけど、その温度でやっているなら観客から本気に見えるのは当たり前なのだろう。 www.youtube.com

話をスライドさせると、短歌に「作中主体」という用語がある。

例えば

お願いねって渡されているこの鍵を私はなくしてしまう気がする   東直子

という短歌があったら*2、鍵をわたされているのが作中主体で、作中主体と作者の東直子さんはイコールでない。ひとつの観点としては東直子さんはそんな経験をしていない可能性があるし、別の観点としては、作者名が併記されると読み手としては鍵を渡されているのは女性であろうという気がするけれどそうとは限らないということもある。

でも大雑把には短歌において作者と作中主体はかなり近い存在であって、最近の短歌ブームも基本的に自分自身の感情の表現として短歌が選ばれているように見える*3。僕たちは「本人の声」を求めているようにも感じる。お前って何者なんだ?

漫才での役と作中主体って呼び方が違うだけでかなり似たものだと思うけど、短歌は単なる文字なのに作中主体は作者であることが自明に思えて、漫才の役は顔が見えているのにも関わらず演者本人とは違うということに観客は薄々気づいている。

似た話だけど、ぼっち・ざ・ろっく!の舞台(いわゆる2.5次元といういうやつだ)のことを思い出した。ぼっち・ざ・ろっく!の主人公「後藤ひとり」はコミュニケーションが苦手ですぐ自分の世界に入り込み、よって奇行も多い、というようなキャラに設定されている。舞台ぼっち・ざ・ろっく!で後藤ひとりを演じた守乃まもさんは舞台を見た観客からは「リアル後藤ひとりだ!」と大評判だったのだが、彼女も役と本人の人格があいまいであることによって魅力を獲得していた。

守乃さんはつねに体をそわそわと動かしていたり、独特な言葉選びで急に話し出したと思ったらしりすぼみに話すのをやめてしまったりして、それは舞台が終わった後のカーテンコールでもそうで、そのような独特のキャラが大人気だった。アニメ(原作は漫画)の舞台化だから、役と本人が決定的に違うのは漫才より明らかなんだけど、その役を演じる際に本人のキャラクターがにじみ出てしまっていて、そのこと自体が喜ばれていた。彼女は舞台経験はなかったそうなので、起用した監督の狙いが完全に当たったのだろう。

実際には後藤ひとりの「コミュニケーションの下手さ」と守乃まもさんの「コミュニケーションの下手そうさ」っていうのは微妙にちがうので、「守乃まもはリアル後藤ひとりだ!」みたいな言い方は不正確だと思うのだけど、その心としては、役に本人がにじんでしまっている(かつその本人のキャラクターが役と親和性がある)ために役と本人の区別が曖昧になり、役が(つまり後藤ひとり役が)目の前に実際にパーマネントな存在として顕現している(ように見える)という興奮なのだと思う。

観客はいつでも本物を消費したいと望んでいる。本当の話を聞きたいし、裏側を知りたい。隅々まで知りたい。それはもちろん望みすぎではあるのだけれど、さまざまなアクロバティックな方法によって「ほぼ本物」が流通しているのが現代で、それは強烈で、いくらかの危うさもしかし含んでいるのだとおもう。危うさをギリギリのところでダメな方に倒さないからアクロバティックなのだと言ってもいいかもしれない。

*1:翻訳家・書評家の鯨井久志さんが言及していたのがきっかけで、彼が紹介してくれるお笑いやSFは全部面白いのですごく助かっていると同時に、なんでこんなこと書いてるんだって感じだけど多分同い年なので僕は勝手に彼を目標にして生きているようなところがある。 https://twitter.com/hanfpen

*2:この歌大好き。僕は鍵をなくし続けているから。

*3:現在的な短歌ブームと、過去からの継続としての短歌は分けられないけど同じとも言えない気がする。短歌の表現はかなり幅を持ったものだけれども、その一部の態度としての「自身の生活を映す」みたいな面が特に流行っているように思う。とはいえ僕は短歌のインサイダーではないので、すべて撤回する必要があるかもしれない。

最近のネタツイは面白すぎる!と言いたい俺たちが温泉に行ってきた時の日記、好きなドラゴン発表惣菜と大喜利と題詠文学、色々うじうじ考える

友人Aが露天風呂からいきなりザッパァと立ち上がって、「最近のネタツイは、面白すぎる!」と叫んだ。だから俺もザッパァと立ち上がって「最近のネタツイは面白すぎる」と唱和した。一応断っておくと他に客はいなかった。

俺たちは最近のネタツイが、本当に地を転げ回るほど好きで、石に刻んで1000年後に残したいほど好きだった。

俺は「カニを細くした虫、エビ*1」という俺たちのお気に入りのネタツイを暗唱し、Aは湯の中を笑いころげた。このツイートを口に出すとどんな不機嫌も吹き飛んで幸せな気持ちになることができたし、今でもできる。

ひとしきり笑った後で、Aは真面目な顔になって、「最近のネタツイって、言葉が面白いだけじゃなくて、言葉が言葉を破壊している」というようなことを言った。俺はその意味をちゃんとは汲めなかったし、彼としても言いたいことを十全には言えていなかっただろうけれども、その気持ちは痛いくらいにわかった。俺たちは、ネタツイを特別なものとして語りたかったのだ。

それから、俺は折に触れてはネタツイについて考えるようになった。はじめに思いついた言葉は、「最近のネタツイは脱構築的である」ということと「最近のネタツイは短詩の領域にある」ということだった。でも、それらの言葉は俺たちが大好きなネタツイそのものと比べたときにひどくみすぼらしく見えたので、まあいいかと思って捨てておいた。

そうこうしているうちに、大喜利が流行ってきた。ちゃんというと、お笑いにアンテナを張っていない俺のような人間にも「流行っている」と感じられるくらいに流行ってきた。ということは、お笑いが好きな人間の間では何年も前から流行っていたに違いない。

大喜利は面白くて、それは幸せなことなんだけど、なぜ寂しい予感がするかというと「最近のツイッターが面白すぎるのは、大喜利をはじめとするお笑いが流行っていて(技術の輸入などによって)インターネットの面白い人のレベルが上がっているから」という、非常に平凡な語り方が正解であるみたいだからだ。

バカみたいな話だが、俺はお笑いに疎く、 2023年のM1を見てびっくりした*2。漫才って面白すぎる! 超面白いネタツイみたいなのが絶え間なく出てくる! そりゃあ、というか、こういうものを好きで研究していたらいいネタツイも出てくるってもんだな、って笑ったりしょんぼりしたりした。

タツイと漫才はそうは言ってもかなり違う形式で、俳句と自由詩くらい違うけど、ネタツイと大喜利はかなり近接した形式だ。俳句と連俳くらい近接している。だからもう言い逃れはできないというか、大喜利文化がインターネットに入ってきて(もしくはネタツイという素地があって大喜利が流行ったのかもしれないけど、その辺はすでに書いたように超疎いので知らない)ネタツイが面白くなったというのは一つの真実っぽい、と納得して、ネタツイを特別なものとして語るのは諦めてしまった。

そうして、段ボール箱の上でレンチンのご飯を食いながらネタツイを見たりYouTube大喜利を見たり、漫才が面白いと知ったので漫才を見たりして漫然と時間が過ぎた。あとは、急にボカロPになろうと思い立って、それからニコニコ動画を見るようになった。ニコニコ動画はド世代なのに全然触れずにここまで歳を重ねてきたので、二十代後半にして新鮮にニコ動を面白がるみたいな珍しいことになった。

ニコ動にはボカコレというボカロ曲の投稿祭があって、2024年の2月には『好きな惣菜発表ドラゴン*3』の二次創作が大量に投稿された。

好きな惣菜発表ドラゴンのオリジナル動画自体は前からあったけど、ボカコレ冬に合わせて二次創作のお膳立てがされて、つまりは大喜利会場になった。やはり二次創作の大半は『好きな〇〇発表ドラゴン』で、それは普通の大喜利だと思うんだけど、それに混じって『好きなドラゴン発表惣菜*4』っていうのがあって、俺はパシン!と膝を叩いた。 『好きな〇〇発表ドラゴン』と横並びで『好きなドラゴン発表惣菜』が出てくるってどんなスピード感なんだよ、と感動したのだった。

好きなドラゴン発表惣菜、っていうのはお題に答えるんじゃなくてお題を崩しているわけで、好きな惣菜発表ドラゴンブームが一ヶ月とか続いた後期の方に出てきてもおかしくないひねり方なのに、ネタ曲投稿祭の1日目に発表されている。すげえ。

そんな気持ちで今度は大喜利動画を見ていると、ある意味で似たようなケースがあることに気づいた。たとえば「『背中の傷は剣士の恥だ』みたいに言うな」というお題、つまりはこの題がツッコミになるようなボケを提示しろ *5と言うお題に対して、初手で「みたいに言ってすみませんでした」という回答がある*6。これはわざと題を誤読して答えているわけで、言うまでもなく題自体をひねっている。

つまり、現代のおもしろと言うのは、題をいじくりまわした挙句に題自体を脱臼させ始めるの“ではなく”、初めから「題自体をひねる」という手札が選択肢に入っている。

俺は俳句に片足を突っ込んでおり、俳句はある方向から切り取れば季語を題として575を作るという題詠文学だ。というか、季語を置いておいても俳句の575や短歌の57577という字数制限は題的な性格が強い。俳句なんかは短く見積もっても明治くらいからずっと題に真っ直ぐ答え続けてきて、行き詰まっては少しずつ題をスライドさせて、その過程で自由律俳句が生まれたり無季俳句とか口語俳句とか色々な拡張形式が生まれてきた。そういう時間規模で動いている文芸を片目で見つつ、「題をひねる」が初手にあるジャンルをもう片目で見ると、初めて大阪に行って高層ビルを見たときみたいな気分になる*7

そういえば、俳句と大喜利を重ね合わせて考えると共鳴する部分がもう一個ある。大喜利の人が使う「正解」という言葉があって、「その回答がその題に対するもっとも面白く、正しい回答だ」という直感のようなものを指しているっぽいのだが、この感覚は俳句にもある。

俳句における「正解」は面白いとかではなく、「季語を限りなくうまく捉えている」みたいなことになり、それをたとえば俳人・評論家の筑紫磐井は「本質的類想」と呼んでいる*8。俳句にとっては「正解」があることは悩みの源泉でもあり、そのことを認めてしまったら「正解」に近づこうとするだけの行為って創作なんだろうかとか、いや正解は実際のところはないんじゃないかとか色々な面倒な話が出てくるけど、そんなことは一旦どうでもよくて、とにかく大喜利は文化として「正解」の存在を認めている。短い時間の中で「正解」がでる危険があるからこそ題の解体も初期の手札として持たないといけない、というような事情もあろうと思う。

だから、大喜利やそれに類するおもしろコンテンツを題詠文学になぞらえるとするなら、一瞬の間に形式が生じ、正解が出され、形式が解体されるというほとんどライフサイクルに近いようなことが各お題ごとに行われていることになる。

そのスピード感だよ、と思った。だからこの面白さはポルノに近い。旧来であれば人の一生くらいの時間感覚で起きていたようなことが一瞬のうちに激しく始まって終わり、一回性のものとして消費される。最高だ。最高の娯楽、大喜利。そしてその流れを汲むネタツイ、というところで許してもらえないだろうか。あの日の俺たち、聞いているか。

*1:

twitter.com 2年前のツイートなので、最近なのか? と思われるかもしれないが、温泉に行ったのは多分去年のことで、何よりサラリーマンにとって1年はあまりに短い

*2:M1は毎年見ているはずだが、とにかく 2023年はびっくりした

*3:www.nicovideo.jp

*4:www.nicovideo.jp

*5:ほぼ全く川柳というか前句付と同じ構造で面白い。

kotobank.jp

*6:youtu.be

*7:俺は京都出身で、京都の建物は条例で全部低い

*8:筑紫磐井『伝統の探求〈題詠文学論〉: 俳句で季語はなぜ必要か』https://www01.hanmoto.com/bd/isbn/9784904800423

日記 - 2024/03/31

誘われたので知人と会った。

砂浜に立つと強風に乗って砂が頬を打った。 「今日は富士山は見えないですね」と知人が言った。 サーファーとみられる人が波に揉まれていて、このような季節に好んで海に入る人は専用の暖かい水着があってそれを着ているのか、耐えることに慣れているのかどちらなのか気になった。

実際、遠景は霞んでいてほとんど何も見えなかった。 往路の電車ではその知人に教えてもらった本を読んでいた。他者のわからなさとそれに対処する技法の本であった。

僕たちはともにプログラミングを職業とし、文学を好み、とはいえ文学が大好き! と公言するほどには愛しておらず、小難しいことを考えるのが好きで、しかも同じ本を読んでいた。

僕たちは同じすぎることについて気にしていた。同時に、依然として僕と彼は決定的に分かり合えない存在であった。富士山が見えないので、僕はそういう連想をした。

つまり、差異を横に置いたまま話すことのできる領域が広すぎるのだと思った。たとえばここと富士山を隔てる湾くらいに広い。そして二人とも差異を横に置いておくのが十分に上手だった。

僕は他の、数少ない知人についても考えた。結局、僕はわかる範囲で話すのが得意でわからない範囲に踏み込むのが苦手なのだと思った。わからない範囲に踏み込んだ方がいいのかどうかもわからなかった。好きかどうかで言えば、人間の理解できない部分と向き合うのは嫌いだ。

しかし、同質性が担保された領域の探索ではなく、未知のものへの対処こそが人生を進めるということである気もした。僕と知人の間で話題は尽きなかったが、そこで生起する物事は静的で、たとえば幾何学模様を規則に従って拡大していくような、分散和音をなぞっていくような振る舞いをした。人生の進行とはもっと順次的なものである気がした。もっとも、それは結婚と育児が中心である場合の人生に限定した話かもしれなかった。ずっと同じ時間を過ごす家族にとって、必然的に立ち現れてくる差異に対処していくということがすなわち生きていくという行為で、それは間違いなく尊いことだから。でもそのような人生を僕は少なくとも今選んではおらず、それがいいのか悪いのかについてはわからなかった。

「普段も風が強いのですか?」と僕は尋ね、「こんなには強くないけど、落ち着こうとすると気になりますね」と彼は答えた。

コミュニケーションが成立していた。その向こうで霞んで見えない彼の他者性について。見えたとしても誰も幸福にならない可能性もあることについて。

彼はたくさん本をくれたので、その分僕は彼と同じ度合いを増した。

帰りは4kmほど歩いた。一人で歩くのは楽しい。

『起きられない朝のための短歌入門』の感想を、言うぜ

平岡直子 我妻俊樹 『起きられない朝のための短歌入門』っていう、短歌入門書(?)が書肆侃侃房から出版された。

www.kankanbou.com

↑これ。

11月頭に出た本で、10月くらいに予約して買ったけど、そういうのって初めてかもしれない。大学生のときは図書館と古本屋にばっかり行ってたから。というかそんなに本読んでなかった。

でも世に出たばっかりの本も読むといいですね。

読んだ感想としては、面白かった。けども、全然入門書じゃない。

じゃあなんだというと、対談集です。テーマは確かにお二人の初心者のときのこととか、「短歌ってなんだ」的な話題だったりとか、スランプに関してだったりとか、入門書の目次に出てきそうな感じではあるんだけど、別にそれに対して答えを与えるわけでもないし、何かを提示するようなことすらあんまりなく、それぞれの考えを楽しそうに喋っている、だけ。

というか、よくタイトルを見ると「短歌入門」とは書いてあるけど入門書とは書いてない。「起きられない朝のために、短歌に入門するといいよ」というテーマの対談集なのかも。実は。帯には「入門書」ってどーんと書いてあるけどこれは嘘。


短歌って、今は完全に一種のサブカルチャーというかポップカルチャーで、見よう見まねでやる人がいっぱいいて流行ってる分野ですよね。

短歌を世間に広めようとして俵万智が、あるいは穂村弘が入門書を書くのとはもう時代が違うわけで、「短歌っていいんだよ」「簡単なんだよ」とかいう必要なくて、そんなことみんな知ってて、なんとなく書いて、なんとなく受容されている。

だから、教師はあまり必要とされていない。どっちかというと先輩とかがいるとよくて、ヘラヘラしながら「まあ、俺もよくわからんけど、こう思ったりするけどな」みたいなことを言ってほしいし、話半分で聞きながら、いつまでもわからないままのつもりで書く、みたいなのが標準的作歌姿勢なんだと思う。

いや、まあ、カルチャーセンターみたいなところで、「短歌を学びたい」みたいな需要はある、が、なんか、そういうのはダサいというか、短歌ってそういうことじゃないよな、という方がメインストリームであるようなジャンルになっている。

だから、「短歌入門」が対談集であるというのは、まさにちゃんと今の短歌文化の中から出てきた「入門書」な感じがして、外堀を埋めるようなやり方しかできず、またそれが成功している本だと思います。

思いますっていうか、そういうこと(ちょっと違う切り口だけど)もこの本に書いてあった。

内輪的というか、マニアックというか、短歌すでにやってる人しか分からんやろみたいな話題も出てくるように感じるけど、読者って意外とそういうの楽しめるので、楽しい。

十全に分からなかったとしても、そういう内輪の雰囲気を嗅いで、それに惹かれて入ってくるみたいなことはあるし、身近に短歌仲間がいない短歌初心者とかにはそういうのが一番欲しいものですらあるかも知れない。

僕は俳句を好きでたまに作るけど、きっかけとしては正岡子規の随筆を読んで、彼の家にいろんな人が集まってガヤガヤ俳句を作っている雰囲気みたいなものに惹かれたというのが一番なので、人によるのかも知れないけどそういうことはある。

本の話に戻るけど、総じて言えば、なんか知りたいことは全部聞けた。 特に、よく分からん短歌って結構あるけど、著者お二方はどっちかというとよく分からん歌を作る方の人たちで、作り手が何を考えてるのかとか、分からん短歌の作り手が別の作り手の分からん短歌を見て何を思うのか、とかが部分的にわかった、のでとても嬉しい。

みんなも知りたいこと全部聞こう。

オタク言葉を面白がる。「練りをしまつ」の謎、「結束した」の面白さについてについて。

オタクは言語に聡い。というのは美化しすぎで、何がしか文字情報に執着のあるオタクがテキスト主体のSNSに張り付きがちだというのがより正しい。

だから、オタクが作った言葉には面白いものがたくさんある。

いくらでもあるんだけど、最近ふと気になった言い回しは「結束した」ってやつです。

「ぼっち・ざ・ろっく!」っていう漫画・アニメがあって、そこに出てくるバンド(ロックバンド、とかのバンド)の名前が「結束バンド」っていうのね。 それで、「結束〇〇」みたいな関連イベントが色々あって、それに参加することを「結束する」って表現する。

面白いのはこれが全然珍しい表現じゃないってことで、読んでくださっているみなさんがTwitterに明るい方だとすると、「別に変わった表現じゃないじゃん」って感じると思う。

他にも例えば「響け!ユーフォニアム」を見ることを「響く」って言ったりして、類例がたくさんある。

この現象を説明するとすると「作品やイベントのタイトルの一部の動詞を以て作品・イベントに関わる行為を示す」表現だと言えると思う。

これは一種の換喩(メトニミー)ではなかろうか。換喩っていうのは、「Aに関係する別のものBによってAを指す」表現のことで、例えば「鍋」で鍋料理を指すみたいなのが有名だと思う。「オタク」という言葉も出自としては換喩と言えそう。まず「お宅」で「あなた」を指すのが換喩で、互いを「お宅」と呼び合う奴らのことを「オタク」と呼ぶのも換喩。

そんなふうに換喩は比較的ありふれた現象ではあるけど、「結束する」みたいな感じで文字面から動詞を取ってきて…というのは面白い気がする。それとも探してみればオタク文化以前にも似たようなことはあるのかな。「整う」とか若干そのケがある気もする。

動詞の話繋がりで、変な動詞として「勝つる」っていうのが使われている。「これで勝つる」みたいな。僕の周囲のオタクが使ってるだけかもしれないけど…。

これはなんか活用が変になってる。オタクはすぐに活用をぐちゃぐちゃにする。

僕の解釈としては、「勝つ」を外来語みたいな感じで捉え直して、それに「る」をつけて再動詞化してるんじゃないかと思うんだけどどうだろうか。

「ジャムる」「ディグる」みたいなね。そういう見慣れない場所に「勝つ」を追いやることによってあえての拙さを演出するみたいなことなのかなと思いました。オタクは拙さが好き。

しかも「勝つる」って「〇〇しか勝たん」っていう言い回しを多分下敷きにして、「〇〇しか勝たん」=「〇〇が最高である」→「勝つ」=「いい状態である」みたいな意味の類推を行なっている気がする。どうなんでしょうね。

「勝つ」=「良い」といえば「最高の気分だ」ということの表現として「優勝する」という言い回しがあったけど、これって「〇〇しか勝たん」と関係あるんですか? そのへん有識者がいらっしゃったら教えてください。

「よさみが深い」っていうのもあった。これは[形容詞語幹]+[み]で名詞化する(うまみ、深み…)というやつの変則バージョン。 [形容詞語幹]+[そう](うまそう、深そう…)のような場合に、語幹が一音の場合は語調を整えるために謎の「さ」が入る(よさそう、なさそう…)けど、それを真似して「み」に応用したのが「よさみ」だと思われる。

僕の周りでは「よさみの深まり」なんていう言い回しも聞こえる。これはかなりなんというか、濃いオタクの香りがする。 より無臭に近い「よき」っていう表現が最近(?)流行ってるけど、これも形容詞を名詞化して使っているという点では似ている。「よきですね」なんていう。

形容詞を排して全部名詞にしてしまって、簡単な助動詞や補助動詞でつなげていくようなシンプルな言語が希求されているのかもしれない。 社会全体としてシンプルな文法が選択されていく先端にオタクが位置しているのか、それともシンプルな文法をあえて選択することによって拙さを演出しているのか…。

そう言えば、これは関西方言なのかオタク言葉なのか判別できないんだけど、僕の周囲の話し言葉として「あかんすぎる」というのがある。「せんすぎ」というのもある。「掃除せんすぎて部屋が終わった」みたいな。

[形容詞/形容動詞語幹]+[すぎる](高すぎる、静かすぎる)の変形で、関西方言としては形容詞の活用を失ってしまった「ん」=「ない」を無理に語幹の位置でも使ってしまっている。

さらには名詞でも使っちゃえて、「京都すぎる」みたいにも言える。ここまでくるとさすがに明らかに若者言葉であろうなという感じがしてくる。

これもなんか、文法シンプル化の潮流を感じる例でした。

最後に「練りをしまつ」について言わせてほしい。これは「寝りをする」ということで、寝ることを指す。「します」→「しまつ」については口足らず化で、これもオタク言語で頻出する。よく知らんけど、本来舌とか唇が接触すべきでないところで接触させようという風潮がある。「す」→「つ」もそうだし、「モタク」(オタク)とか「ぽれ」(おれ)とか。 不可解なのは「寝りをする」の方。「寝をする」ならわかる。動詞を名詞化しているだけだから。「釣る」=「釣りをする」と一緒。

それで考えてみると、まず「寝る」の活用を、本来は下一段活用(寝ない/寝ます/寝る/寝るとき/寝れば/寝ろ)であるところを四段活用(寝らない/寝ります/寝る/寝るとき/寝れ)に置き換えて、その上で連用形を使って名詞化して「寝り」になっている。(c.f. 釣り)

四段活用は一番基本的な活用で、その他の活用が四段と混同されるみたいな現象は起きてるぽいので、これもやっぱり拙さの演出で四段が(無意識に)選ばれているということになろうと思う。

オタクの言語感覚って、鋭敏で、面白くて、そして嫌だね……。

誤用と嫌悪感(「耳触りがいい」について)

今日、会社の同期と「耳ざわり」の話になった。

彼が言うには「耳触りのいい言葉」というような用法は間違っている。「耳障り」が正しい。(この「障り」は例えば「差し障り」の「障り」だ)

正しいんだろうけど、僕は「ふ〜ん、ムカつくぜ」と思った。だって「耳触りがいい」って普通に使うし。 だから彼に食ってかかった。

僕はこういうのは「賢そうなことを言った方が勝ち」ゲームだと思っているので、用例検索エンジンを使って明治の用例とかを示した。実際結構見つかったし、有名な作家も使っていた。

でも彼は引き下がらなかった。彼は彼で「耳触りがいい」という言い方にムカついているから。

そんなこんなでやりとりをしているうちに、さっきの僕の反論は全然本質的じゃないなってことに気づいた。


ちょっとここで脱線して「ら抜き言葉」と「れ入れ言葉」の話をさせてほしい。「食べられる」と「食べれる」、「行ける」を「行けれる」というやつだ。

僕の感覚では「ら抜き」はカジュアルな表現として使うけど、「行けれる」は明らかに「間違い」に感じる。

なぜか?

多分、「ら抜き」については「まどろっこしいから省略している」という理由づけが(主観的に)存在する。一方で「れ入れ」の方は「れ」を入れる(主観的に)合理的な理由はない。*1

つまり、用例が一般的かどうかとは関わりなく、「間違っている」という感覚が大事なんじゃないかってことだ。もしくは、「間違っていない」という感覚が。

そこで、僕としては「耳触り」に立ち返って、こいつが(僕にとって主観的に)間違っているのか、それとも(自分を納得させる程度の)合理性を持っているのかはっきりさせる必要が出てきた。

ここから話が複雑になるのでちょっと登場人物を整理する。

①「耳障り」:耳に障る。うるさい。

②「耳触り」:聞いた内容に対する印象。良かったり悪かったりする。

③「耳触り」:耳に触れられた感触。肌触り、手触りなどの仲間。良かったり悪かったりする。

②が今回の被告人だ。③はたった今登場した新人物であり、ここから重要参考人になってもらう。

僕の考えでは①と③は「正しい」。「手触り」に比べて「耳触り」というのはあまり使わないけど、「体の部位」+「触り」という表現は全部ありうると思う。歯触り、足触り、舌触り…。 だから「耳触りがいい」というフレーズ自体は間違っていないはずで、ただ、②とは違う意味を持っている。

③が①の影響で新しい意味を持ったか、①が③の影響で間違った使われ方をしたのが②なんだと思う。

そこで、「耳触りがいい」許容派としては次のような主張をしてみることができる。

②は③の比喩的な用法だ。たとえ①の影響を受けていたとしても誤用とは言えない」

つまり、例えばふわふわの枕みたいな、耳に触れると心地いいものを指して使う「耳触りがいい」という表現を、「聞いた印象が心地いい」ということを表す比喩として使っているんじゃないか、ってことだ。そうだとすれば②の「耳触りがいい」という表現にも一応の合理性はあるように思われる。

一方、これに対する同期氏の反論は

「聞いた内容の印象」のことを「耳触り」という触覚で喩えるのには違和感がある

というものだった。ここにきて、「間違い」の判定基準はこの比喩を許せるかどうか、というところまで煮詰まってきた。

この比喩が成立しないなら、「耳触りがいい」を使う合理的な理由は存在しないし、単に「耳障り」を取り違えて使ったと言われても仕方ない。

変な例を出すようだけど、「目触り」という言葉は存在しない。(目に触ると痛いから)だから、「目触りがいい」という言葉はどう考えても間違いだ。「耳触り」はどうだろうだ?

結論を言えば、僕の負けかもしれない。

耳に触れる感触で「聞いた内容の印象」を喩えられるか? 字面を見ると妥当な気もするけど、感触としての「耳触り」と「聞いた印象」は直感的にはかなり隔たりがある気がしてきた。まだ「肌触り」とかのほうが共通点がある。「肌触りのいい言葉」は比喩として成立するかもしれない。

ここまで考えて、「耳触りがいい」にムカついていた同期の感覚がわかった。彼が正しい。

でも僕は負けを認めるのはムシャクシャするので、「明治から使われている誤用なら、現代においてはもう誤用とは言えない」って強弁してお茶を濁しておいた。

*1:「れ入れ」の仕組みに一応触れておく。日本語の動詞には対応する「可能動詞」を持つものと持たないものがある。例えば「行く-行ける」「流す-流せる」など。一方で、可能動詞を持たない動詞(「食べる」とか)では「れる・られる」をくっつけて(食べられる)可能表現にする。後者の動詞の方が多いから、可能表現には「れる」がつく、という感覚ができてしまって、「行ける」などの可能動詞にも(重複して)「れる」をつけてしまうのが「れ入れ」。逆に、「れる」をつけるタイプの可能表現を無理やり可能動詞っぽくしたのが「ら抜き」だ。雑に言えば「行ける」と「食べれる」って似てるね、ってこと。「ら抜き」のいいところは受け身と可能を分けて表現できるところ。「食べられる」だと捕食されているのか、何かを食えるのかわからない。