漫才コンビ十九人を見て思ったこと、舞台ぼっち・ざ・ろっく!を思い出して思ったこと、つまり作中主体について
YouTubeにもいろいろネタがあがっていて、面白いから見てほしい。何が面白いかというと、まず目につくのはボケ担当のゆっちゃんw(w含めて芸名)が大雑把に言えば天然というか、ほっておいても突飛なことを突飛と思わずに言いまくる、しかも変わった動作を交えながら言いまくるみたいなキャラで、つまりは小説でいうなら文体みたいなものが強烈であること。もう一つは、というか漫才コンビとしての特徴というのはこちらなんだと思うけど、ネタの構造がちょっと変わっていて、「その場で演じられていること」自体がネタの言及対象になっている。
たとえば「ツチノコ」というネタではツッコミの松永くんにツチノコ役をやらせておいて、「お前はなぜツチノコのふりをしている!?」みたいに詰め寄るところがある。
これって、「人が何かを演じることの変さ」みたいなものを扱っているわけで、なにか複雑なことがそこで生じている。もっと素朴に言うならば、観客が当然だと思っていることが裏切られるので面白い。
「キャラが独特」と「複雑なことをやっていて面白い」という二つのことが同居しているのが重要なんだと思う。ゆっちゃんwの文体が毛羽立っている、整っていない、ことによって虚構線があいまいになっている。漫才師がマイクの前に立ったらそこから演技が始まるのだということを我々は知っていて、そこでしゃべっている人は「役」であって本人ではないわけなんだけど、「それ以外のやり方で話せない」というように見える(あるいは見せている)人が漫才をやるばあいに、それがどの程度役でどの程度本人なのかが観客からはわかりづらくなる。役でなくて本人に見えれば見えるほど、舞台上の出来事は観客の方に引き寄せられていく。
素直なコントだったら、「ツチノコ役」は完全に「ツチノコ」である体で話がすすむ。観客から見れば「ツチノコ役」は松永くんである。一方ゆっちゃんwはその間のどこかにいて、ツチノコと松永くんの中間くらいの存在に本気で対峙している、みたいに見える。見えるからハラハラするし面白い。
なんならインタビューで本人も「ツチノコじゃなくてそこにいるのは松永くんだ」となるシーンで「本当によかった!」と思うと語っていて、どこまでほんとなんだと思うけど、その温度でやっているなら観客から本気に見えるのは当たり前なのだろう。 www.youtube.com
話をスライドさせると、短歌に「作中主体」という用語がある。
例えば
お願いねって渡されているこの鍵を私はなくしてしまう気がする 東直子
という短歌があったら*2、鍵をわたされているのが作中主体で、作中主体と作者の東直子さんはイコールでない。ひとつの観点としては東直子さんはそんな経験をしていない可能性があるし、別の観点としては、作者名が併記されると読み手としては鍵を渡されているのは女性であろうという気がするけれどそうとは限らないということもある。
でも大雑把には短歌において作者と作中主体はかなり近い存在であって、最近の短歌ブームも基本的に自分自身の感情の表現として短歌が選ばれているように見える*3。僕たちは「本人の声」を求めているようにも感じる。お前って何者なんだ?
漫才での役と作中主体って呼び方が違うだけでかなり似たものだと思うけど、短歌は単なる文字なのに作中主体は作者であることが自明に思えて、漫才の役は顔が見えているのにも関わらず演者本人とは違うということに観客は薄々気づいている。
似た話だけど、ぼっち・ざ・ろっく!の舞台(いわゆる2.5次元といういうやつだ)のことを思い出した。ぼっち・ざ・ろっく!の主人公「後藤ひとり」はコミュニケーションが苦手ですぐ自分の世界に入り込み、よって奇行も多い、というようなキャラに設定されている。舞台ぼっち・ざ・ろっく!で後藤ひとりを演じた守乃まもさんは舞台を見た観客からは「リアル後藤ひとりだ!」と大評判だったのだが、彼女も役と本人の人格があいまいであることによって魅力を獲得していた。
守乃さんはつねに体をそわそわと動かしていたり、独特な言葉選びで急に話し出したと思ったらしりすぼみに話すのをやめてしまったりして、それは舞台が終わった後のカーテンコールでもそうで、そのような独特のキャラが大人気だった。アニメ(原作は漫画)の舞台化だから、役と本人が決定的に違うのは漫才より明らかなんだけど、その役を演じる際に本人のキャラクターがにじみ出てしまっていて、そのこと自体が喜ばれていた。彼女は舞台経験はなかったそうなので、起用した監督の狙いが完全に当たったのだろう。
実際には後藤ひとりの「コミュニケーションの下手さ」と守乃まもさんの「コミュニケーションの下手そうさ」っていうのは微妙にちがうので、「守乃まもはリアル後藤ひとりだ!」みたいな言い方は不正確だと思うのだけど、その心としては、役に本人がにじんでしまっている(かつその本人のキャラクターが役と親和性がある)ために役と本人の区別が曖昧になり、役が(つまり後藤ひとり役が)目の前に実際にパーマネントな存在として顕現している(ように見える)という興奮なのだと思う。
観客はいつでも本物を消費したいと望んでいる。本当の話を聞きたいし、裏側を知りたい。隅々まで知りたい。それはもちろん望みすぎではあるのだけれど、さまざまなアクロバティックな方法によって「ほぼ本物」が流通しているのが現代で、それは強烈で、いくらかの危うさもしかし含んでいるのだとおもう。危うさをギリギリのところでダメな方に倒さないからアクロバティックなのだと言ってもいいかもしれない。
*1:翻訳家・書評家の鯨井久志さんが言及していたのがきっかけで、彼が紹介してくれるお笑いやSFは全部面白いのですごく助かっていると同時に、なんでこんなこと書いてるんだって感じだけど多分同い年なので僕は勝手に彼を目標にして生きているようなところがある。 https://twitter.com/hanfpen
*2:この歌大好き。僕は鍵をなくし続けているから。
*3:現在的な短歌ブームと、過去からの継続としての短歌は分けられないけど同じとも言えない気がする。短歌の表現はかなり幅を持ったものだけれども、その一部の態度としての「自身の生活を映す」みたいな面が特に流行っているように思う。とはいえ僕は短歌のインサイダーではないので、すべて撤回する必要があるかもしれない。
最近のネタツイは面白すぎる!と言いたい俺たちが温泉に行ってきた時の日記、好きなドラゴン発表惣菜と大喜利と題詠文学、色々うじうじ考える
友人Aが露天風呂からいきなりザッパァと立ち上がって、「最近のネタツイは、面白すぎる!」と叫んだ。だから俺もザッパァと立ち上がって「最近のネタツイは面白すぎる」と唱和した。一応断っておくと他に客はいなかった。
俺たちは最近のネタツイが、本当に地を転げ回るほど好きで、石に刻んで1000年後に残したいほど好きだった。
俺は「カニを細くした虫、エビ*1」という俺たちのお気に入りのネタツイを暗唱し、Aは湯の中を笑いころげた。このツイートを口に出すとどんな不機嫌も吹き飛んで幸せな気持ちになることができたし、今でもできる。
ひとしきり笑った後で、Aは真面目な顔になって、「最近のネタツイって、言葉が面白いだけじゃなくて、言葉が言葉を破壊している」というようなことを言った。俺はその意味をちゃんとは汲めなかったし、彼としても言いたいことを十全には言えていなかっただろうけれども、その気持ちは痛いくらいにわかった。俺たちは、ネタツイを特別なものとして語りたかったのだ。
それから、俺は折に触れてはネタツイについて考えるようになった。はじめに思いついた言葉は、「最近のネタツイは脱構築的である」ということと「最近のネタツイは短詩の領域にある」ということだった。でも、それらの言葉は俺たちが大好きなネタツイそのものと比べたときにひどくみすぼらしく見えたので、まあいいかと思って捨てておいた。
そうこうしているうちに、大喜利が流行ってきた。ちゃんというと、お笑いにアンテナを張っていない俺のような人間にも「流行っている」と感じられるくらいに流行ってきた。ということは、お笑いが好きな人間の間では何年も前から流行っていたに違いない。
大喜利は面白くて、それは幸せなことなんだけど、なぜ寂しい予感がするかというと「最近のツイッターが面白すぎるのは、大喜利をはじめとするお笑いが流行っていて(技術の輸入などによって)インターネットの面白い人のレベルが上がっているから」という、非常に平凡な語り方が正解であるみたいだからだ。
バカみたいな話だが、俺はお笑いに疎く、 2023年のM1を見てびっくりした*2。漫才って面白すぎる! 超面白いネタツイみたいなのが絶え間なく出てくる! そりゃあ、というか、こういうものを好きで研究していたらいいネタツイも出てくるってもんだな、って笑ったりしょんぼりしたりした。
ネタツイと漫才はそうは言ってもかなり違う形式で、俳句と自由詩くらい違うけど、ネタツイと大喜利はかなり近接した形式だ。俳句と連俳くらい近接している。だからもう言い逃れはできないというか、大喜利文化がインターネットに入ってきて(もしくはネタツイという素地があって大喜利が流行ったのかもしれないけど、その辺はすでに書いたように超疎いので知らない)ネタツイが面白くなったというのは一つの真実っぽい、と納得して、ネタツイを特別なものとして語るのは諦めてしまった。
そうして、段ボール箱の上でレンチンのご飯を食いながらネタツイを見たりYouTubeで大喜利を見たり、漫才が面白いと知ったので漫才を見たりして漫然と時間が過ぎた。あとは、急にボカロPになろうと思い立って、それからニコニコ動画を見るようになった。ニコニコ動画はド世代なのに全然触れずにここまで歳を重ねてきたので、二十代後半にして新鮮にニコ動を面白がるみたいな珍しいことになった。
ニコ動にはボカコレというボカロ曲の投稿祭があって、2024年の2月には『好きな惣菜発表ドラゴン*3』の二次創作が大量に投稿された。
好きな惣菜発表ドラゴンのオリジナル動画自体は前からあったけど、ボカコレ冬に合わせて二次創作のお膳立てがされて、つまりは大喜利会場になった。やはり二次創作の大半は『好きな〇〇発表ドラゴン』で、それは普通の大喜利だと思うんだけど、それに混じって『好きなドラゴン発表惣菜*4』っていうのがあって、俺はパシン!と膝を叩いた。 『好きな〇〇発表ドラゴン』と横並びで『好きなドラゴン発表惣菜』が出てくるってどんなスピード感なんだよ、と感動したのだった。
好きなドラゴン発表惣菜、っていうのはお題に答えるんじゃなくてお題を崩しているわけで、好きな惣菜発表ドラゴンブームが一ヶ月とか続いた後期の方に出てきてもおかしくないひねり方なのに、ネタ曲投稿祭の1日目に発表されている。すげえ。
そんな気持ちで今度は大喜利動画を見ていると、ある意味で似たようなケースがあることに気づいた。たとえば「『背中の傷は剣士の恥だ』みたいに言うな」というお題、つまりはこの題がツッコミになるようなボケを提示しろ *5と言うお題に対して、初手で「みたいに言ってすみませんでした」という回答がある*6。これはわざと題を誤読して答えているわけで、言うまでもなく題自体をひねっている。
つまり、現代のおもしろと言うのは、題をいじくりまわした挙句に題自体を脱臼させ始めるの“ではなく”、初めから「題自体をひねる」という手札が選択肢に入っている。
俺は俳句に片足を突っ込んでおり、俳句はある方向から切り取れば季語を題として575を作るという題詠文学だ。というか、季語を置いておいても俳句の575や短歌の57577という字数制限は題的な性格が強い。俳句なんかは短く見積もっても明治くらいからずっと題に真っ直ぐ答え続けてきて、行き詰まっては少しずつ題をスライドさせて、その過程で自由律俳句が生まれたり無季俳句とか口語俳句とか色々な拡張形式が生まれてきた。そういう時間規模で動いている文芸を片目で見つつ、「題をひねる」が初手にあるジャンルをもう片目で見ると、初めて大阪に行って高層ビルを見たときみたいな気分になる*7。
そういえば、俳句と大喜利を重ね合わせて考えると共鳴する部分がもう一個ある。大喜利の人が使う「正解」という言葉があって、「その回答がその題に対するもっとも面白く、正しい回答だ」という直感のようなものを指しているっぽいのだが、この感覚は俳句にもある。
俳句における「正解」は面白いとかではなく、「季語を限りなくうまく捉えている」みたいなことになり、それをたとえば俳人・評論家の筑紫磐井は「本質的類想」と呼んでいる*8。俳句にとっては「正解」があることは悩みの源泉でもあり、そのことを認めてしまったら「正解」に近づこうとするだけの行為って創作なんだろうかとか、いや正解は実際のところはないんじゃないかとか色々な面倒な話が出てくるけど、そんなことは一旦どうでもよくて、とにかく大喜利は文化として「正解」の存在を認めている。短い時間の中で「正解」がでる危険があるからこそ題の解体も初期の手札として持たないといけない、というような事情もあろうと思う。
だから、大喜利やそれに類するおもしろコンテンツを題詠文学になぞらえるとするなら、一瞬の間に形式が生じ、正解が出され、形式が解体されるというほとんどライフサイクルに近いようなことが各お題ごとに行われていることになる。
そのスピード感だよ、と思った。だからこの面白さはポルノに近い。旧来であれば人の一生くらいの時間感覚で起きていたようなことが一瞬のうちに激しく始まって終わり、一回性のものとして消費される。最高だ。最高の娯楽、大喜利。そしてその流れを汲むネタツイ、というところで許してもらえないだろうか。あの日の俺たち、聞いているか。
*1: カニを細くした虫、エビ pic.twitter.com/q3ft02jQWP
twitter.com 2年前のツイートなので、最近なのか? と思われるかもしれないが、温泉に行ったのは多分去年のことで、何よりサラリーマンにとって1年はあまりに短い
*2:M1は毎年見ているはずだが、とにかく 2023年はびっくりした
*5:ほぼ全く川柳というか前句付と同じ構造で面白い。
*7:俺は京都出身で、京都の建物は条例で全部低い
*8:筑紫磐井『伝統の探求〈題詠文学論〉: 俳句で季語はなぜ必要か』https://www01.hanmoto.com/bd/isbn/9784904800423
日記 - 2024/03/31
誘われたので知人と会った。
砂浜に立つと強風に乗って砂が頬を打った。 「今日は富士山は見えないですね」と知人が言った。 サーファーとみられる人が波に揉まれていて、このような季節に好んで海に入る人は専用の暖かい水着があってそれを着ているのか、耐えることに慣れているのかどちらなのか気になった。
実際、遠景は霞んでいてほとんど何も見えなかった。 往路の電車ではその知人に教えてもらった本を読んでいた。他者のわからなさとそれに対処する技法の本であった。
僕たちはともにプログラミングを職業とし、文学を好み、とはいえ文学が大好き! と公言するほどには愛しておらず、小難しいことを考えるのが好きで、しかも同じ本を読んでいた。
僕たちは同じすぎることについて気にしていた。同時に、依然として僕と彼は決定的に分かり合えない存在であった。富士山が見えないので、僕はそういう連想をした。
つまり、差異を横に置いたまま話すことのできる領域が広すぎるのだと思った。たとえばここと富士山を隔てる湾くらいに広い。そして二人とも差異を横に置いておくのが十分に上手だった。
僕は他の、数少ない知人についても考えた。結局、僕はわかる範囲で話すのが得意でわからない範囲に踏み込むのが苦手なのだと思った。わからない範囲に踏み込んだ方がいいのかどうかもわからなかった。好きかどうかで言えば、人間の理解できない部分と向き合うのは嫌いだ。
しかし、同質性が担保された領域の探索ではなく、未知のものへの対処こそが人生を進めるということである気もした。僕と知人の間で話題は尽きなかったが、そこで生起する物事は静的で、たとえば幾何学模様を規則に従って拡大していくような、分散和音をなぞっていくような振る舞いをした。人生の進行とはもっと順次的なものである気がした。もっとも、それは結婚と育児が中心である場合の人生に限定した話かもしれなかった。ずっと同じ時間を過ごす家族にとって、必然的に立ち現れてくる差異に対処していくということがすなわち生きていくという行為で、それは間違いなく尊いことだから。でもそのような人生を僕は少なくとも今選んではおらず、それがいいのか悪いのかについてはわからなかった。
「普段も風が強いのですか?」と僕は尋ね、「こんなには強くないけど、落ち着こうとすると気になりますね」と彼は答えた。
コミュニケーションが成立していた。その向こうで霞んで見えない彼の他者性について。見えたとしても誰も幸福にならない可能性もあることについて。
彼はたくさん本をくれたので、その分僕は彼と同じ度合いを増した。
帰りは4kmほど歩いた。一人で歩くのは楽しい。
『起きられない朝のための短歌入門』の感想を、言うぜ
平岡直子 我妻俊樹 『起きられない朝のための短歌入門』っていう、短歌入門書(?)が書肆侃侃房から出版された。
↑これ。
11月頭に出た本で、10月くらいに予約して買ったけど、そういうのって初めてかもしれない。大学生のときは図書館と古本屋にばっかり行ってたから。というかそんなに本読んでなかった。
でも世に出たばっかりの本も読むといいですね。
読んだ感想としては、面白かった。けども、全然入門書じゃない。
じゃあなんだというと、対談集です。テーマは確かにお二人の初心者のときのこととか、「短歌ってなんだ」的な話題だったりとか、スランプに関してだったりとか、入門書の目次に出てきそうな感じではあるんだけど、別にそれに対して答えを与えるわけでもないし、何かを提示するようなことすらあんまりなく、それぞれの考えを楽しそうに喋っている、だけ。
というか、よくタイトルを見ると「短歌入門」とは書いてあるけど入門書とは書いてない。「起きられない朝のために、短歌に入門するといいよ」というテーマの対談集なのかも。実は。帯には「入門書」ってどーんと書いてあるけどこれは嘘。
短歌って、今は完全に一種のサブカルチャーというかポップカルチャーで、見よう見まねでやる人がいっぱいいて流行ってる分野ですよね。
短歌を世間に広めようとして俵万智が、あるいは穂村弘が入門書を書くのとはもう時代が違うわけで、「短歌っていいんだよ」「簡単なんだよ」とかいう必要なくて、そんなことみんな知ってて、なんとなく書いて、なんとなく受容されている。
だから、教師はあまり必要とされていない。どっちかというと先輩とかがいるとよくて、ヘラヘラしながら「まあ、俺もよくわからんけど、こう思ったりするけどな」みたいなことを言ってほしいし、話半分で聞きながら、いつまでもわからないままのつもりで書く、みたいなのが標準的作歌姿勢なんだと思う。
いや、まあ、カルチャーセンターみたいなところで、「短歌を学びたい」みたいな需要はある、が、なんか、そういうのはダサいというか、短歌ってそういうことじゃないよな、という方がメインストリームであるようなジャンルになっている。
だから、「短歌入門」が対談集であるというのは、まさにちゃんと今の短歌文化の中から出てきた「入門書」な感じがして、外堀を埋めるようなやり方しかできず、またそれが成功している本だと思います。
思いますっていうか、そういうこと(ちょっと違う切り口だけど)もこの本に書いてあった。
内輪的というか、マニアックというか、短歌すでにやってる人しか分からんやろみたいな話題も出てくるように感じるけど、読者って意外とそういうの楽しめるので、楽しい。
十全に分からなかったとしても、そういう内輪の雰囲気を嗅いで、それに惹かれて入ってくるみたいなことはあるし、身近に短歌仲間がいない短歌初心者とかにはそういうのが一番欲しいものですらあるかも知れない。
僕は俳句を好きでたまに作るけど、きっかけとしては正岡子規の随筆を読んで、彼の家にいろんな人が集まってガヤガヤ俳句を作っている雰囲気みたいなものに惹かれたというのが一番なので、人によるのかも知れないけどそういうことはある。
本の話に戻るけど、総じて言えば、なんか知りたいことは全部聞けた。 特に、よく分からん短歌って結構あるけど、著者お二方はどっちかというとよく分からん歌を作る方の人たちで、作り手が何を考えてるのかとか、分からん短歌の作り手が別の作り手の分からん短歌を見て何を思うのか、とかが部分的にわかった、のでとても嬉しい。
みんなも知りたいこと全部聞こう。
オタク言葉を面白がる。「練りをしまつ」の謎、「結束した」の面白さについてについて。
オタクは言語に聡い。というのは美化しすぎで、何がしか文字情報に執着のあるオタクがテキスト主体のSNSに張り付きがちだというのがより正しい。
だから、オタクが作った言葉には面白いものがたくさんある。
いくらでもあるんだけど、最近ふと気になった言い回しは「結束した」ってやつです。
「ぼっち・ざ・ろっく!」っていう漫画・アニメがあって、そこに出てくるバンド(ロックバンド、とかのバンド)の名前が「結束バンド」っていうのね。 それで、「結束〇〇」みたいな関連イベントが色々あって、それに参加することを「結束する」って表現する。
面白いのはこれが全然珍しい表現じゃないってことで、読んでくださっているみなさんがTwitterに明るい方だとすると、「別に変わった表現じゃないじゃん」って感じると思う。
他にも例えば「響け!ユーフォニアム」を見ることを「響く」って言ったりして、類例がたくさんある。
この現象を説明するとすると「作品やイベントのタイトルの一部の動詞を以て作品・イベントに関わる行為を示す」表現だと言えると思う。
これは一種の換喩(メトニミー)ではなかろうか。換喩っていうのは、「Aに関係する別のものBによってAを指す」表現のことで、例えば「鍋」で鍋料理を指すみたいなのが有名だと思う。「オタク」という言葉も出自としては換喩と言えそう。まず「お宅」で「あなた」を指すのが換喩で、互いを「お宅」と呼び合う奴らのことを「オタク」と呼ぶのも換喩。
そんなふうに換喩は比較的ありふれた現象ではあるけど、「結束する」みたいな感じで文字面から動詞を取ってきて…というのは面白い気がする。それとも探してみればオタク文化以前にも似たようなことはあるのかな。「整う」とか若干そのケがある気もする。
動詞の話繋がりで、変な動詞として「勝つる」っていうのが使われている。「これで勝つる」みたいな。僕の周囲のオタクが使ってるだけかもしれないけど…。
これはなんか活用が変になってる。オタクはすぐに活用をぐちゃぐちゃにする。
僕の解釈としては、「勝つ」を外来語みたいな感じで捉え直して、それに「る」をつけて再動詞化してるんじゃないかと思うんだけどどうだろうか。
「ジャムる」「ディグる」みたいなね。そういう見慣れない場所に「勝つ」を追いやることによってあえての拙さを演出するみたいなことなのかなと思いました。オタクは拙さが好き。
しかも「勝つる」って「〇〇しか勝たん」っていう言い回しを多分下敷きにして、「〇〇しか勝たん」=「〇〇が最高である」→「勝つ」=「いい状態である」みたいな意味の類推を行なっている気がする。どうなんでしょうね。
「勝つ」=「良い」といえば「最高の気分だ」ということの表現として「優勝する」という言い回しがあったけど、これって「〇〇しか勝たん」と関係あるんですか? そのへん有識者がいらっしゃったら教えてください。
「よさみが深い」っていうのもあった。これは[形容詞語幹]+[み]で名詞化する(うまみ、深み…)というやつの変則バージョン。 [形容詞語幹]+[そう](うまそう、深そう…)のような場合に、語幹が一音の場合は語調を整えるために謎の「さ」が入る(よさそう、なさそう…)けど、それを真似して「み」に応用したのが「よさみ」だと思われる。
僕の周りでは「よさみの深まり」なんていう言い回しも聞こえる。これはかなりなんというか、濃いオタクの香りがする。 より無臭に近い「よき」っていう表現が最近(?)流行ってるけど、これも形容詞を名詞化して使っているという点では似ている。「よきですね」なんていう。
形容詞を排して全部名詞にしてしまって、簡単な助動詞や補助動詞でつなげていくようなシンプルな言語が希求されているのかもしれない。 社会全体としてシンプルな文法が選択されていく先端にオタクが位置しているのか、それともシンプルな文法をあえて選択することによって拙さを演出しているのか…。
そう言えば、これは関西方言なのかオタク言葉なのか判別できないんだけど、僕の周囲の話し言葉として「あかんすぎる」というのがある。「せんすぎ」というのもある。「掃除せんすぎて部屋が終わった」みたいな。
[形容詞/形容動詞語幹]+[すぎる](高すぎる、静かすぎる)の変形で、関西方言としては形容詞の活用を失ってしまった「ん」=「ない」を無理に語幹の位置でも使ってしまっている。
さらには名詞でも使っちゃえて、「京都すぎる」みたいにも言える。ここまでくるとさすがに明らかに若者言葉であろうなという感じがしてくる。
これもなんか、文法シンプル化の潮流を感じる例でした。
最後に「練りをしまつ」について言わせてほしい。これは「寝りをする」ということで、寝ることを指す。「します」→「しまつ」については口足らず化で、これもオタク言語で頻出する。よく知らんけど、本来舌とか唇が接触すべきでないところで接触させようという風潮がある。「す」→「つ」もそうだし、「モタク」(オタク)とか「ぽれ」(おれ)とか。 不可解なのは「寝りをする」の方。「寝をする」ならわかる。動詞を名詞化しているだけだから。「釣る」=「釣りをする」と一緒。
それで考えてみると、まず「寝る」の活用を、本来は下一段活用(寝ない/寝ます/寝る/寝るとき/寝れば/寝ろ)であるところを四段活用(寝らない/寝ります/寝る/寝るとき/寝れ)に置き換えて、その上で連用形を使って名詞化して「寝り」になっている。(c.f. 釣り)
四段活用は一番基本的な活用で、その他の活用が四段と混同されるみたいな現象は起きてるぽいので、これもやっぱり拙さの演出で四段が(無意識に)選ばれているということになろうと思う。
オタクの言語感覚って、鋭敏で、面白くて、そして嫌だね……。
誤用と嫌悪感(「耳触りがいい」について)
今日、会社の同期と「耳ざわり」の話になった。
彼が言うには「耳触りのいい言葉」というような用法は間違っている。「耳障り」が正しい。(この「障り」は例えば「差し障り」の「障り」だ)
正しいんだろうけど、僕は「ふ〜ん、ムカつくぜ」と思った。だって「耳触りがいい」って普通に使うし。 だから彼に食ってかかった。
僕はこういうのは「賢そうなことを言った方が勝ち」ゲームだと思っているので、用例検索エンジンを使って明治の用例とかを示した。実際結構見つかったし、有名な作家も使っていた。
でも彼は引き下がらなかった。彼は彼で「耳触りがいい」という言い方にムカついているから。
そんなこんなでやりとりをしているうちに、さっきの僕の反論は全然本質的じゃないなってことに気づいた。
ちょっとここで脱線して「ら抜き言葉」と「れ入れ言葉」の話をさせてほしい。「食べられる」と「食べれる」、「行ける」を「行けれる」というやつだ。
僕の感覚では「ら抜き」はカジュアルな表現として使うけど、「行けれる」は明らかに「間違い」に感じる。
なぜか?
多分、「ら抜き」については「まどろっこしいから省略している」という理由づけが(主観的に)存在する。一方で「れ入れ」の方は「れ」を入れる(主観的に)合理的な理由はない。*1
つまり、用例が一般的かどうかとは関わりなく、「間違っている」という感覚が大事なんじゃないかってことだ。もしくは、「間違っていない」という感覚が。
そこで、僕としては「耳触り」に立ち返って、こいつが(僕にとって主観的に)間違っているのか、それとも(自分を納得させる程度の)合理性を持っているのかはっきりさせる必要が出てきた。
ここから話が複雑になるのでちょっと登場人物を整理する。
①「耳障り」:耳に障る。うるさい。
②「耳触り」:聞いた内容に対する印象。良かったり悪かったりする。
③「耳触り」:耳に触れられた感触。肌触り、手触りなどの仲間。良かったり悪かったりする。
②が今回の被告人だ。③はたった今登場した新人物であり、ここから重要参考人になってもらう。
僕の考えでは①と③は「正しい」。「手触り」に比べて「耳触り」というのはあまり使わないけど、「体の部位」+「触り」という表現は全部ありうると思う。歯触り、足触り、舌触り…。 だから「耳触りがいい」というフレーズ自体は間違っていないはずで、ただ、②とは違う意味を持っている。
③が①の影響で新しい意味を持ったか、①が③の影響で間違った使われ方をしたのが②なんだと思う。
そこで、「耳触りがいい」許容派としては次のような主張をしてみることができる。
②は③の比喩的な用法だ。たとえ①の影響を受けていたとしても誤用とは言えない」
つまり、例えばふわふわの枕みたいな、耳に触れると心地いいものを指して使う「耳触りがいい」という表現を、「聞いた印象が心地いい」ということを表す比喩として使っているんじゃないか、ってことだ。そうだとすれば②の「耳触りがいい」という表現にも一応の合理性はあるように思われる。
一方、これに対する同期氏の反論は
「聞いた内容の印象」のことを「耳触り」という触覚で喩えるのには違和感がある
というものだった。ここにきて、「間違い」の判定基準はこの比喩を許せるかどうか、というところまで煮詰まってきた。
この比喩が成立しないなら、「耳触りがいい」を使う合理的な理由は存在しないし、単に「耳障り」を取り違えて使ったと言われても仕方ない。
変な例を出すようだけど、「目触り」という言葉は存在しない。(目に触ると痛いから)だから、「目触りがいい」という言葉はどう考えても間違いだ。「耳触り」はどうだろうだ?
結論を言えば、僕の負けかもしれない。
耳に触れる感触で「聞いた内容の印象」を喩えられるか? 字面を見ると妥当な気もするけど、感触としての「耳触り」と「聞いた印象」は直感的にはかなり隔たりがある気がしてきた。まだ「肌触り」とかのほうが共通点がある。「肌触りのいい言葉」は比喩として成立するかもしれない。
ここまで考えて、「耳触りがいい」にムカついていた同期の感覚がわかった。彼が正しい。
でも僕は負けを認めるのはムシャクシャするので、「明治から使われている誤用なら、現代においてはもう誤用とは言えない」って強弁してお茶を濁しておいた。
*1:「れ入れ」の仕組みに一応触れておく。日本語の動詞には対応する「可能動詞」を持つものと持たないものがある。例えば「行く-行ける」「流す-流せる」など。一方で、可能動詞を持たない動詞(「食べる」とか)では「れる・られる」をくっつけて(食べられる)可能表現にする。後者の動詞の方が多いから、可能表現には「れる」がつく、という感覚ができてしまって、「行ける」などの可能動詞にも(重複して)「れる」をつけてしまうのが「れ入れ」。逆に、「れる」をつけるタイプの可能表現を無理やり可能動詞っぽくしたのが「ら抜き」だ。雑に言えば「行ける」と「食べれる」って似てるね、ってこと。「ら抜き」のいいところは受け身と可能を分けて表現できるところ。「食べられる」だと捕食されているのか、何かを食えるのかわからない。
「エモい」は何が画期的か・「エモい」と戦うとき僕たちはなにと戦っているのか
「エモい」への批判・擁護もブームが過ぎたけれど、多くのひとが「エモい」という言葉を使い続けているし、また多くの人がそれを嫌悪し続けている。
僕は「エモい」にムカつく方の人間なので、この言葉の何が悪いのかについてずっとウジウジ考えていて、最近ちょっと思い付いたことがあるので書いてみる。
まずよくある「エモい」批判*1をあげつらってみる。
安易に使われ過ぎ。何見ても「エモい」って言えばいいみたいになってるじゃん。
これは当たっていると思う。でも当たりつくしてはいない。安易に使われまくっている言葉は他にもたくさんある。代表的なものが「なんとも言えない」とか。
どういう言葉であっても安易に使えば価値が下がるのは当たり前で、丁寧に使い分けられた言葉の方がいいに決まっている。 だから「なんとも言えない」もかなり憎まれるべき言葉遣いだと思うけれども、やっぱり「エモい」に比べると集めている憎しみの量が違うんじゃないかと思う。
「何ともいえない」みたいな安易な感想を述べる層ですら「エモい」のことは嫌っている気がする。(そんな気がしませんか?)
そこで、僕たちは「エモい」の何が特別なのかについて考えなければいけない、ということになっていく。
「エモい」みたいな品の低い言葉じゃなくて日本語には○○という美しい言葉があるのに...
この「言い換え」論法は最悪だ。何も説明していないし何も当たっていない。どうしてその既存のレパートリーに「エモい」は参加資格がないのか? という話をしているんだこっちは!
しかし、この批判は「エモい」反対者の心理の描写としては割と秀逸なんじゃないかと思う。
反対者が「美しい言葉」を使ってほしい内容について、使用者が「エモい」を選択するから反対者はいらだつのだ。
しかし使用者にとって話は逆なのだ。「美しい言葉」は彼らのレパートリーへの参加資格がないし、「エモい」にはある。
「書き言葉」と「話し言葉」という概念がある。「話し言葉」は日常生活でつかわれる言葉であり、人と人のコミュニケーションの道具としての言語である。「書き言葉」は表現されたものとしての言語である。現代においてこの二者は接近しているけれども、それでも全く違うものとしてあり続けている。
例えばこのブログはかなり話し言葉に近い文体で書いているけれども、僕が他人と話す言葉遣いとは隔たりがある。あくまでブログに書かれた言葉は書き言葉だ。
書き言葉と話し言葉の境界は個人差があって、恋人に「愛している」と日常会話で伝えられる人もいれば、それが芝居がかっていると抵抗感を覚える人もいる。後者の人にとって「愛している」は書き言葉であって話し言葉ではない。書き言葉というのは発話者にとって「表現」になってしまうから、照れをともなったりしっくりこなかったり、とにかく使いづらいものだ。
「愛してるよ」よりも「大好き」の方が君らしいんじゃない?
という宇多田ヒカルの歌詞は、表現の言葉ではなく生活の言葉で話そうという、表現上の愛ではなく現実の愛について語ろうという、そういう歌詞なんですねえ*2...。
それで、ある種の人々、特に表現を愛する人たちは書き言葉をカギ括弧でくくって*3話し言葉へ登場させるというような芸当が好きだ。
「郷愁を感じ」ますね、などというような言葉を普通に使う。
しかし、そうでない人にとっては「郷愁」などというのは日常会話に出てくることのない語彙なのだ。使うときはそれなりのもったいをつけて「いわゆる『郷愁』」という感じを出さないと気持ちが悪いのだ。 そもそも話し言葉というのはそんなに豊かな語彙を必要としない。人間の対面コミュニケーションはむしろ固定的な言葉を好むし、日常に出現する具体的なものを指示できればことたりる。
「エモい」みたいな品の低い言葉じゃなくて日本語には○○という美しい言葉があるのに...
○○として挙がるのはみんな書き言葉だ。「エモい」によって表される心の状態は書き言葉によって表されるべきだ、というのが批判者の気持ちなのである。
一方で「エモい」が画期的なのはそれが話し言葉であることによる。エモい物事をそれと表現する手段はずっと書き言葉に独占されてきた。「情緒」が...「郷愁が」...「切なさ」が...「胸がいっぱいになった」でさえ、話し言葉として使う人は少ないのではないだろうか。
話し言葉は「エモい」を獲得し、人々はカギ括弧にくくられた表現から自由になった。何の照れもてらいもなく「エモい」がすべてを言い表してくれる。
「エモい」の獲得には背景がある。そもそも、「エモい」で表されるところの心的状態というのは非常に個人的なもののはずだ。感情を他者と共有するようなことはできない。だから、コミュニケーションの道具としての話し言葉は「嬉しい」「悲しい」「最悪」「草」などの基本感情を備えれば十分だし、そうするしかなかった。
逆に、(一部の)芸術は個人的な経験・感情を表現しようという意欲に燃えているから、書き言葉が感情を表す語彙を豊かしていくのもまた自然なことだった。
芸術に「個人的な感情の表現」が出現すると、その作品自体は具体的に参照可能であるから、それらの作品を形容するような語彙があれば原理的には話し言葉として使用可能だ。しかし、芸術がある程度高尚なものという感覚がある時代には、芸術への言及もまた書き言葉だった*4。
「文学的」という言葉がある。「文学的な表現」「雨の音が文学的」などと使われるとき、この語は「エモい」と非常に似通う。誰かの表現してきた「文学」を総じて形容することで、そこで取り上げられるような微妙な心的状態、およびそれを引き起こすような出来事を指して用いられる。これは俗っぽい用法だがそれでも書き言葉だ(友人との日常会話でカギ括弧なしに「文学的」という語をつかえる*5だろうか?)
しかし、アニメや漫画、ラノベ、JPOPその他いろいろが大衆の娯楽芸術として出現した。これらは「みんなが見ている日常的なもの」であるから、それを形容する言葉は話し言葉でありうる。
「萌え」は話し言葉だったが、自分の感情に言及するものだった。
「エモい」は物事の形容だった。この音楽はエモい、このアニメはエモい。それと相似のこの出来事はエモい。この風景はエモい。(そういうときの自分の感情もエモいと表現するけど、どちらかというと派生的な用法だと思う)
だから、魚が大きいとか、気温が高くて暑いとかいうのと同じようなレベルで何かをエモいと言うことができる。エモいものを指してエモいと言っているだけなので事実の共有であり、自己表明ではない。自己表明でないから何の心的ハードルもない。実は非常に個人的で複雑なはずの感情の共有が、大量の大衆芸術によって形成されたカタログ的な感情に関する合意を通して間接的に可能になっている。
「エモい」批判者がいらついているのは、そのような簡易的で近似的な感情表現についてだ。複雑な個人的感情が、既存の型にはめこまれ近似されている、そういう鈍感さについてだ。アニメあるあるとしてではなく、自分の感情にちゃんと向き合って言葉を紡ぐべきだという倫理だ。
しかしこれは押し付けであって、飯を食い終わった人間に「感想文を書け」と原稿用紙を突きつけるような蛮行だ。飯はうまい。夕暮れはエモい。それはそれでいいのだ。
批判者に対して意地悪な言い方をすると、自分たちが表現のフィールドとしている個人的感情が話し言葉に侵されることへのいらだちがあるのだ。創作者でなくても自分の表現にプライドをもっている人はたくさんいる。僕をふくめてそういう人間は、「エモい」によって自分の土地が土足で踏み荒らされているような気分がする。そんな簡単な言葉で言い表せるはずがない、というおごりがある。
いずれにせよ、僕の結論としては「『エモい』は言い換えられない」ということで、批判者としては白旗を上げることになる。
「そんなことでは日本語が、日本人の感情が貧しくなるのではないだろうか?」
しかし、話し言葉というのはそもそも限定的なものなのである。こんにちは。今日は暑いね。または寒いね。または過ごしやすいね。元気? まあまあかな。そうやって我々は生きているし、それが貧しいってことはない。
ただし。
これだけでは溜飲が下りないのでただしておくと、以上の結論は「エモい」が話し言葉として使われているということを前提としたものだ。
書き言葉の領域に持ち込まれたなら話は全く変わってくる。なんらかの表現意図を持った人間が「エモい」を使用した場合、 「他にも〇〇や××という言葉が既にあるのに」という言いがかりは有効性を持つ。
表現において、安易に使われていい言葉などない。「エモい」を使うなら、明確にそれを選び取る意識がないといけない。これだって押し付けだけど、相手は表現者で、表現というのは押し付け合いだ。許せないなら絶対に許してはいけない。
だから、繰り返しになるけど、話し言葉としての「エモい」には文句を言わないでおこうというのが僕の結論です。