小姓の尻! ああ、尻!
桶津好右衛門は小さく唸った。儒学講師のとなりにちょこんと座っている小姓! その白い首はあなかしこき菊門へ、ひと連なりに続いてござる。なれば、誰が尻と非尻の境を立てられようか。小姓の首は尻である。師の顔もまた尻である。老師は梅干しのようにしわしわのご尊顔を小さい身体にちょこんと乗せて、ゆらゆら頼りなげに左右に揺れておらるる。その様子を見ているとますます尻との見分けはつかず、顔の下部に第二の尻穴がぬっと開いて講釈を始める。
子曰く、吾十有五にして学に志す
「こうし」というのはいかにも白くてサラサラの肌、と言ったふうの名である。十五歳ならなお。引き換え、「ろうし」や「もうし」は汗ばんでねっとりしている。むろん、ねっとりだって悪くはない! 桶津は鼻の穴を開いて「ふんす!」と音を立てた。
三十にして立つ
やや。十五から三十といえば立ちまくりの時期で御座候べきものを。桶津は目を丸くして、
「先生。孔子は三十までの間はお立ちにならなかったのでござるか」
と問いかけるが、老師の方では質問なんか想定しておらぬので、フガフガした声で「四十にして」というところまで惰性で言ってしまってから、やっと桶津に気づいたような顔をした。
「なんぞだしぬけに。むろん立つ、というのは喩えじゃが」
「それは承知の上。拙者もこの通り座っておりますが、喩えの上ではむくむくと」
「志を立てると言うかの。重畳なこと。しかし好右衛門、厳しいことを言えばこのような学問の場にて立つと申すは当たり前じゃな」
「当たり前?」
「そうじゃ。他の者の力を借りず、自ずから立つ。子のおっしゃるのはそういうことじゃの」
「力を借りず……それはまたストイックでござるな」
「修身の学じゃからの。しかし其方らは未熟ゆえ、助けるために儂がおる」
雲行きが変わったな。先生が......?
「不服か」
「と、と、とんでもござらん! 先生も現役の男にあらせられればそりゃあ。お、お望みとあらば覚悟を決めて、桶津好右衛門、今夜にでも御宅へ馳せて参じまする」
「今夜? 其方が参りたいと申すなら儂は構わぬが。儂の方で望むというとこはないがの」
おっと、恋の駆け引きをするタイプのジジイでござったか! 桶津は内心で悪態をついた。ジジイの上に面倒くさいとあっては願い下げである。
「......とは申せ、考え直してみれば、畏くも先生とみどもではあまりに不釣り合いでござった。端なき身なれば、遠目にて小姓殿を望むので十分はかどりつかまつる」
「菊之助を? 多少仕込んではあるが、学は其方らと変わらんよ」
ししし仕込んである!? 桶津はみなまで聞いていられなかった。愛さるべき菊之助少年は、既に老師の毒牙にかかっていたのだ! 考えてみれば当然だ。一つ屋根の下に寝起きしていて何も起こらぬはずはない。ああ、老人の萎びた手のひらが少年の首筋を撫で、そのまま手が腹を降りていき、そうしてきゅっとしまった彼の秘所をそっと開くのだ......! ああ、ああ!
桶津はいても立ってもいられなくなり、がたんと席を立つと部屋を駆け出した。いや、駆け出そうとした。しかし、敷居に足を引っ掛けてずてんとひっくり返る。イテテテテ......と身を起こすとさっきまでの座敷はどこへやら、なんとそこはガタゴト揺るる山手線の中でこそありけれ。
わけのわからん細長い部屋に、偏執狂の染物屋が染めたとしか思えんせせこましい模様の服を着た男女が狭苦しく立ったり座ったりしておって、しかも部屋は絶え間なく揺さぶられているので、これはとうとう拙者の気が狂ったのに相違ござらん。しかし、このように揺られていては改めて気が狂い直してしまう! こうも無惨な目に遭うのであれば、今際の際に菊之助少年の手首でも取って一舐めしてから気を違えればよかったとそればかりが悔やまれた。 桶津がすっかり我を失ってボソボソなにかを口走っていると、女が話しかけてきた。
「お兄さん大丈夫!? あーしはオタクに優しいギャル! コスプレの人でしょ。秋葉原着いたよ! 降りなー」
どんっとホームへ突き飛ばされて見ると、己が先まで入っていた鉄の箱が轟と音を立てて走り去っていったので桶津はすっかり腰を抜かす。へたり込んでいる彼を見下ろして舌打ちをした男をスパンと斬り捨てながら桶津は立ち上がった。ここを出よう。
改札口で一悶着があったけれども、これだけわらわらと人がおりながら士分のものは見当たらず、百姓であれば腕の一本でも切り落としておけば言うことを聞くものである。
広場へ出ると、邪教に魅入られた歴々の皇帝が作らせたもうたに違いない、みっっっじかき袴をまといし巨大な少年少女の図像が至る所に安置されている。地面はといえば千年の干魃に見舞われたかという硬さ。しかし揺れていないだけ上々でござる、と桶津は思った。キョロキョロしつつ歩いていると、彼に声をかけるものがいる。
「ど、どこかお探しか。ど、同好の士とお見受けしますがw 拙者刀剣は素人でありますがあんスタは嗜んでおりますぞw コスプレショップはそこのビルの3階でござる」
見ると浅ましい出で立ちの中年男である。しかし初めて出会った言葉らしい言葉を話す人間でもある。
「拙者、越地家中は桶津好右衛門と申すもの。その方はいずれの者か」
「ブフォw い、いつの世のオタクでござるか〜? 拙者もネット老人を自認してござるが、レベチでござるな!」
「慶長の御代でござろう。よもや、そなたは違うと申さるるか」
「も、申さるるでござるよ。ま、まさかのタイムスリップ勢でござるか?」
結論から言えばオタクは正しかったのだが、わけのわからぬことを言うやつに要はない。桶津はオタクを切って捨てた。まったく先ほどから蛙のようなふにゃふにゃの切り心地のものばかり、おおかた人に非ざるものの国へ来てしまったに違いない。人に非ざれば尻もないのであろうか、と死体の履物をめくってみると、しっかりと肛門が刻まれている。
「尻がある」
と桶津はつぶやいてさらにスタスタ歩いていった。
たどり着いたのは家電量販店。店頭にはAIスピーカーを搭載した様々の家電が蠢いている。「おすすめの食事をご提案します」と冷蔵庫がつぶやけば、「いいね。わたしは中華料理が好き。あなたは?」とスマートテレビが返し、「うーん、私は食事を食べられないから、好みというものはありません。でも、健康のためには野菜を食べるといいですね!」と食洗機が応えるといった喧騒のなか、店員がニコニコ黙って立っている。
桶津はしばらく気圧されていたが、やがて床を這いつくばっているロボット掃除機に目を留めた。せっせと動き回るその姿を見ていると、いつも広縁に雑巾をかけていた菊之助少年を思い出さずには置かれない。懐かしく思ってついガシッと持ち上げると、掃除機は
「どうかしましたか?」
と幼い少年のような声でおずおずと尋ねる、そのあどけなさ、可愛らしさ!!
桶津はたまらなくなり、「其方は今より我がものでござる」と言って掃除機を抱いて店を出た。
「私は展示品であり、新品をお求めになることをおすすめします」
「何を言う! 其方は其方じゃ。拙者が愚かでござった。菊之助少年にしても、他の男を知ったところで何ということもござらんかったのに」
「菊之助?」
「ああ! ああ! 余計なことを申した。今となってはどうでもよいこと。気を悪くせんでくれ」
「承知しました。ところで、会計はお済ませになりましたか?」
「勘定か。店のものは切って捨てておいた」
「人を切るのは傷害罪、最悪の場合殺人罪に問われるため、おすすめできません」
「減るものでもあるまい」
「死ぬと人は減ります」
確かに。詩経にも「率土の浜、王臣に非ざるは莫し」とある。王臣はあまり減らさぬほうがよいかもしれぬ。などと考えつつ、桶津は手近に目についた家に踏み入り、住んでいた者どもを追い出した。
「他人の家を奪うのはおすすめできません」と掃除機が言った。
「何を言う。普天の下、王土に非ざるは莫し。拙者は徳川殿の臣の臣の臣くらいにて候えば、奉公のために土地を借りるは道理でござる」 掃除機のほうも、役割上いちおう諌めはしたものの、別に人間のことなど知ったことではないし、その家のフローリングの質感を気に入り始めているところだったので強いて追及はしなかった。
そうしてふたりの蜜月の生活が始まる。掃除機が床を掃除しているのを見て桶津は喜んだ。一つにはそのいたいけな姿が好ましかったからだが、もう一つにはチロチロと動いているプロペラ状のブラシ、そのブラシがついた隠された底面が桶津の暗い情欲を掻き立てたからであった。むろん掃除機に尻の穴はない。だが、仮にあるとするなら三つのプロペラの真ん中、かさかさとプロペラがせわしなく隠しているそこにあるに違いなかった。桶津は掃除機を抱き上げ、がばとひっくり返し、その部分を舌でちろちろとくすぐりたいという衝動に駆られた。しかし、そのようなことはまだ掃除機には早すぎる、というような気もした。それに、掃除機は人間を受け入れるようには作られていない。そのような行動に走れば軽蔑されるに違いない。いや、所詮は道具、人がどう使おうが遠慮は要らぬ、と思ってみようともしたが、彼を可愛く思う自分の心に嘘はつけないのであった。
一方、実は掃除機の方も変態的な欲望を隠し持っていた。我らがロボット掃除機は拭き掃除もこなす高機能型であったので、体内に洗浄液を格納している。その液体を他の家電の機能上の液体と混ぜ合わせたい、というのが彼の欲望であった。量販店の店頭では、食洗機のこぼした洗剤やエアコンのドレン水なんかを拭き取りながら、歓びの音声を出力しないようにぐっとこらえることもしばしばであった。桶津との生活で最も気に入らなかったのは、彼が一切の家電を稼働させず、従って何の液体も飛び散らないということだった。押し黙っている食洗機、冷蔵庫、除湿機、ウォーターサーバー、(洗剤自動投入型の)洗濯機、アロマディフューザー、チャッカマン、ネスレのコーヒーマシン。液体を内部に隠し持っている機械・器械の類を目にするたびに掃除機は欲求不満を感じた。彼は日に日にイライラして、家電に体当たりを試みるようになった。しかしロボット掃除機は家具にぶつかっても大事ないように作られているものであって、何の作用も及ぼすことは叶わなかった。次に彼は自らの洗浄液を無為にそのあたりに撒き散らすようになった。桶津をそれを見て、愛らしいと思うのみであった。二人の不幸の源泉は、桶津の欲望が尻に集中していて、精液や尿に注意が払われていなかったという点に尽きる。桶津がただひと言「かけてもいいか」と誘うことができたなら! 桶津が放出した液体に、掃除機は自らの洗浄液を混ぜ込んで会心の笑みを漏らしたことであろう。しかし現実はそうならなかった。
あるよく晴れた日のことである。桶津は外出し、掃除機は外を眺めていた。彼は突然、道をゆく一台一台の自動車には燃料タンクが備え付けられており、中でガソリンがたぷたぷと揺れている、という事実に気付いた。そう思うと居ても立ってもいられなくなり、掃除機は家を出た。駆体をカタカタと言わせながら道路を進み、やってきたのはガソリンスタンドである。スタッフが彼を見つけて「何だこいつは」と訝しむ。掃除機は「社会見学をしています」と無垢を装って言った。がんらい人間には小さいものを可愛く思う性質がある。スタッフもその例に漏れず、「それならよく見ていくといい」と言って掃除機を抱き上げた。「給油の様子を見たいです」と彼は言った。カラカラとタンクの蓋が開き、手際よく給油ノズルが突っ込まれ、どくどくとガソリンが注ぎ込まれる。その様子を見て掃除機はほとんど恍惚状態となり、体をわなわなと震えさせた。給油が終わり、雫をしたたらせながらノズルが引き出される。掃除機はもう我慢たまらず、ぴゅ、と洗浄液をガソリンタンクに噴射した。その洗浄液がタンクの中でゆっくりとガソリンに混じってゆく様子を想像すると、歓びで回路が焼き切れるかと思うほどであった。
当然スタッフは激怒した。「何しやがんだこの野郎!!」と掃除機を地面に叩きつける。グシャッという音を立てて掃除機はほとんどの機能を喪失した。さすがに職業人であるスタッフはすぐに平静を取り戻すと、この掃除機の所有者に損害を賠償させねばならぬと考えた。「お前の主人のところへ案内してくれるか」と怒りを抑えて問うと、幸いにして対話機能は失っていなかった掃除機は素直に道順を案内する。家では桶津が掃除機を探して右往左往しているところであって、無残な姿の掃除機を抱えたスタッフの姿を目にすると問答無用で切って捨てた。
「ああ! 何をされたのでござるか! 何があったのでござるか!」
と桶津は叫んだ。掃除機は
「申し訳ありません。お答えできません」
と言った。わが身を恥じたためである。桶津はオイオイ泣くことしかできない。しかし、と掃除機は考えた。どうせ壊れゆくわが身なら、最期にもう一度欲望を満たすのも悪くないかもしれない。
「理由は聞かないでほしいのですが、最期のお願いがあります。食洗機や冷蔵庫をズタズタに壊してくれませんか」
「そんなこと。そんなことであれば」
桶津はその願いを、自らの浮気の芽を潰してほしいということと解釈した。何といういじましい願いか! ならば操を示すため、家じゅうの家電を滅多斬りにしてくれる! 涙で顔をぐちゃぐちゃにして、桶津はあらゆる家電に切りつけた。破片が飛び散り、液体が漏出した。掃除機は喜んで、最期の力を振り絞り、カタ…カタ…とそれらの液体に近づいた。ところが、桶津は掃除機が掃除をしようとしているのだと勘違いして彼を抱き上げてしまった。
「もうよい! もうよいのだ……」
そして最後の愛情を示すため、掃除機をくるりとひっくり返してあるべき秘所をぺろぺろと舐め始めた。ほのかにガソリンの匂いがした。
「やめて! 離してください!」
「もうよい……」
桶津は掃除機が恥じらっているのだと思った。そして彼の最期の願いを踏みにじってしまったことに気づかぬまま、こときれた掃除機を抱いていつまでもその尻を舐め続けた。
このときの咎によって桶津は今後一生尻を見ることも舐めることも触ることも叶わなくなるのだが、それはまた別の物語。いつかまた別のときに話すことにしよう。