blog in 箪笥

やっぱりとりとめもないことを

「エモい」は何が画期的か・「エモい」と戦うとき僕たちはなにと戦っているのか

「エモい」への批判・擁護もブームが過ぎたけれど、多くのひとが「エモい」という言葉を使い続けているし、また多くの人がそれを嫌悪し続けている。

僕は「エモい」にムカつく方の人間なので、この言葉の何が悪いのかについてずっとウジウジ考えていて、最近ちょっと思い付いたことがあるので書いてみる。

まずよくある「エモい」批判*1をあげつらってみる。

安易に使われ過ぎ。何見ても「エモい」って言えばいいみたいになってるじゃん。

これは当たっていると思う。でも当たりつくしてはいない。安易に使われまくっている言葉は他にもたくさんある。代表的なものが「なんとも言えない」とか。

どういう言葉であっても安易に使えば価値が下がるのは当たり前で、丁寧に使い分けられた言葉の方がいいに決まっている。 だから「なんとも言えない」もかなり憎まれるべき言葉遣いだと思うけれども、やっぱり「エモい」に比べると集めている憎しみの量が違うんじゃないかと思う。

「何ともいえない」みたいな安易な感想を述べる層ですら「エモい」のことは嫌っている気がする。(そんな気がしませんか?)

そこで、僕たちは「エモい」の何が特別なのかについて考えなければいけない、ということになっていく。

「エモい」みたいな品の低い言葉じゃなくて日本語には○○という美しい言葉があるのに...

この「言い換え」論法は最悪だ。何も説明していないし何も当たっていない。どうしてその既存のレパートリーに「エモい」は参加資格がないのか? という話をしているんだこっちは!

しかし、この批判は「エモい」反対者の心理の描写としては割と秀逸なんじゃないかと思う。

反対者が「美しい言葉」を使ってほしい内容について、使用者が「エモい」を選択するから反対者はいらだつのだ。

しかし使用者にとって話は逆なのだ。「美しい言葉」は彼らのレパートリーへの参加資格がないし、「エモい」にはある。

「書き言葉」と「話し言葉」という概念がある。「話し言葉」は日常生活でつかわれる言葉であり、人と人のコミュニケーションの道具としての言語である。「書き言葉」は表現されたものとしての言語である。現代においてこの二者は接近しているけれども、それでも全く違うものとしてあり続けている。

例えばこのブログはかなり話し言葉に近い文体で書いているけれども、僕が他人と話す言葉遣いとは隔たりがある。あくまでブログに書かれた言葉は書き言葉だ。

書き言葉と話し言葉の境界は個人差があって、恋人に「愛している」と日常会話で伝えられる人もいれば、それが芝居がかっていると抵抗感を覚える人もいる。後者の人にとって「愛している」は書き言葉であって話し言葉ではない。書き言葉というのは発話者にとって「表現」になってしまうから、照れをともなったりしっくりこなかったり、とにかく使いづらいものだ。

「愛してるよ」よりも「大好き」の方が君らしいんじゃない?

という宇多田ヒカルの歌詞は、表現の言葉ではなく生活の言葉で話そうという、表現上の愛ではなく現実の愛について語ろうという、そういう歌詞なんですねえ*2...。

それで、ある種の人々、特に表現を愛する人たちは書き言葉をカギ括弧でくくって*3話し言葉へ登場させるというような芸当が好きだ。

「郷愁を感じ」ますね、などというような言葉を普通に使う。

しかし、そうでない人にとっては「郷愁」などというのは日常会話に出てくることのない語彙なのだ。使うときはそれなりのもったいをつけて「いわゆる『郷愁』」という感じを出さないと気持ちが悪いのだ。 そもそも話し言葉というのはそんなに豊かな語彙を必要としない。人間の対面コミュニケーションはむしろ固定的な言葉を好むし、日常に出現する具体的なものを指示できればことたりる。

「エモい」みたいな品の低い言葉じゃなくて日本語には○○という美しい言葉があるのに...

○○として挙がるのはみんな書き言葉だ。「エモい」によって表される心の状態は書き言葉によって表されるべきだ、というのが批判者の気持ちなのである。

一方で「エモい」が画期的なのはそれが話し言葉であることによる。エモい物事をそれと表現する手段はずっと書き言葉に独占されてきた。「情緒」が...「郷愁が」...「切なさ」が...「胸がいっぱいになった」でさえ、話し言葉として使う人は少ないのではないだろうか。 

話し言葉は「エモい」を獲得し、人々はカギ括弧にくくられた表現から自由になった。何の照れもてらいもなく「エモい」がすべてを言い表してくれる。

「エモい」の獲得には背景がある。そもそも、「エモい」で表されるところの心的状態というのは非常に個人的なもののはずだ。感情を他者と共有するようなことはできない。だから、コミュニケーションの道具としての話し言葉は「嬉しい」「悲しい」「最悪」「草」などの基本感情を備えれば十分だし、そうするしかなかった。

逆に、(一部の)芸術は個人的な経験・感情を表現しようという意欲に燃えているから、書き言葉が感情を表す語彙を豊かしていくのもまた自然なことだった。

芸術に「個人的な感情の表現」が出現すると、その作品自体は具体的に参照可能であるから、それらの作品を形容するような語彙があれば原理的には話し言葉として使用可能だ。しかし、芸術がある程度高尚なものという感覚がある時代には、芸術への言及もまた書き言葉だった*4

「文学的」という言葉がある。「文学的な表現」「雨の音が文学的」などと使われるとき、この語は「エモい」と非常に似通う。誰かの表現してきた「文学」を総じて形容することで、そこで取り上げられるような微妙な心的状態、およびそれを引き起こすような出来事を指して用いられる。これは俗っぽい用法だがそれでも書き言葉だ(友人との日常会話でカギ括弧なしに「文学的」という語をつかえる*5だろうか?)

しかし、アニメや漫画、ラノベ、JPOPその他いろいろが大衆の娯楽芸術として出現した。これらは「みんなが見ている日常的なもの」であるから、それを形容する言葉は話し言葉でありうる。

「萌え」は話し言葉だったが、自分の感情に言及するものだった。

「エモい」は物事の形容だった。この音楽はエモい、このアニメはエモい。それと相似のこの出来事はエモい。この風景はエモい。(そういうときの自分の感情もエモいと表現するけど、どちらかというと派生的な用法だと思う)

だから、魚が大きいとか、気温が高くて暑いとかいうのと同じようなレベルで何かをエモいと言うことができる。エモいものを指してエモいと言っているだけなので事実の共有であり、自己表明ではない。自己表明でないから何の心的ハードルもない。実は非常に個人的で複雑なはずの感情の共有が、大量の大衆芸術によって形成されたカタログ的な感情に関する合意を通して間接的に可能になっている。

「エモい」批判者がいらついているのは、そのような簡易的で近似的な感情表現についてだ。複雑な個人的感情が、既存の型にはめこまれ近似されている、そういう鈍感さについてだ。アニメあるあるとしてではなく、自分の感情にちゃんと向き合って言葉を紡ぐべきだという倫理だ。

しかしこれは押し付けであって、飯を食い終わった人間に「感想文を書け」と原稿用紙を突きつけるような蛮行だ。飯はうまい。夕暮れはエモい。それはそれでいいのだ。

批判者に対して意地悪な言い方をすると、自分たちが表現のフィールドとしている個人的感情が話し言葉に侵されることへのいらだちがあるのだ。創作者でなくても自分の表現にプライドをもっている人はたくさんいる。僕をふくめてそういう人間は、「エモい」によって自分の土地が土足で踏み荒らされているような気分がする。そんな簡単な言葉で言い表せるはずがない、というおごりがある。

いずれにせよ、僕の結論としては「『エモい』は言い換えられない」ということで、批判者としては白旗を上げることになる。

「そんなことでは日本語が、日本人の感情が貧しくなるのではないだろうか?」

しかし、話し言葉というのはそもそも限定的なものなのである。こんにちは。今日は暑いね。または寒いね。または過ごしやすいね。元気? まあまあかな。そうやって我々は生きているし、それが貧しいってことはない。

ただし。

これだけでは溜飲が下りないのでただしておくと、以上の結論は「エモい」が話し言葉として使われているということを前提としたものだ。

書き言葉の領域に持ち込まれたなら話は全く変わってくる。なんらかの表現意図を持った人間が「エモい」を使用した場合、 「他にも〇〇や××という言葉が既にあるのに」という言いがかりは有効性を持つ。

表現において、安易に使われていい言葉などない。「エモい」を使うなら、明確にそれを選び取る意識がないといけない。これだって押し付けだけど、相手は表現者で、表現というのは押し付け合いだ。許せないなら絶対に許してはいけない。

だから、繰り返しになるけど、話し言葉としての「エモい」には文句を言わないでおこうというのが僕の結論です。

*1:あくまで僕の論を進める材料として挙げるので、既存の「エモい」批判を網羅する気はないです。あらかじめご了承を...

*2:個人の感想です

*3:別に書き言葉だけでなくあらゆる言葉をカギ括弧でくくるんだけどね。「エモい」だって直接触りたくはないから僕はカギ括弧でくくらないと使えない。

*4:と言ってはみたものの、「ロマンチック」などは話し言葉として通用しているな…。

*5:「文学に関わる」という意味ではなく、「文学で表現されるようないいかんじの」という用法において