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やっぱりとりとめもないことを

吉本隆明『言語にとって美とはなにか』第一章を読む! ぜひ一緒に!

 吉本隆明『言語にとって美とはなにか』を読んで感銘を受けたので、解説のようなノートのような何かを書こうと思います。

www.kadokawa.co.jp

 タイトルの通り、「言語表現において、どういう表現が高い価値を持つのか?」ということがテーマです。

 例えば、自分の表現に「なにかが足りていない」と感じるとき、何が足りていないのか。ある作品に感心したとき、その作品のどこが高度なのか。そういう疑問を持つことはよくあると思います。こういう疑問に、自らの素朴な知性で答えることもできるのですが、何らかの思考の標準があれば力強いことこの上なしです。そういうものをこの本は与えてくれます。

 序文に曰く  

わたしは、文学は言語でつくった芸術だという、それだけではたれも不服をとなえることができない地点から出発し、現在まで流布されてきた文学の理論を、体験や欲求の意味しかもたないものとして疑問符のなかにたたきこむことにした。(中略)もんだいは文学が言語の芸術だという前提から、現在提出されているもんだいを再提出し、論じられている課題を具体的に語り、さてどんなおつりがあるかという点にある。 (p13 序)*1

 すなわち、「言語にとって美とはなにか」(≒価値のある言語表現とはどんなものか?)ということに関して0から普遍的な一大理論を築いた上で、その理論が十分に役に立つ(創作者・批評者にとっての武器になるのか? これまでにアプローチし得なかった部分にたどり着くことができるのか?)ことが彼のゴールということです。かっこいいですね。

 さて今回は七章構成の中の第一章を読んでいきます。この章で導入される概念が、一冊を通しての主要な道具になります。そういう意味でキャッチーな章です。二章以降でその概念を使って「文学」に踏み込んでいきますが、それについては後日やる気が出たときに書きます。

自己表出と指示表出

キーワード!

 フライングをしてキーワードを先に紹介します。「自己表出」と「指示表出」です。これらが本書の主たる武器です。第一章はこの二つの概念を導入し、説明することをテーマとしています。

 吉本と一緒にこれらの概念を手に入れていきましょう。

本論

 彼と、読者である我々は「文学は言語の芸術だ」という前提しか持っていないため、「言語表現」とはどういうものか? というところから考え始めるしかありません。言語の本質的な性質を理解し、そこから言語の価値について考えていこうというのです。

「言語とはなにか?」

 この問いへのアプローチとして、吉本は言語の発生について考えます。言語未満の言語が「言語」になったとき、本質的にはどんな飛躍が遂げられているのか?

 吉本はマルクス主義の言語起源論をはじめとするいくつかの理論を紹介し、ある部分を評価し、別の部分を否定しながら次のように主張します。  

これ(引用者註:社会の高度化)は人類にある意識的なしこり・・・をあたえ、このしこりがある密度をもつようになると、やがて共通の意識符牒を抽出させるようになる。そして有節音が自己表出(selbstausdrücken)されることになる。 (pp26-27)

 このようにして吉本と我々は「自己表出」という概念にたどり着きます。

 次の図(絵)を見てみてください。

言語段階の発達

 ①は言語以前の言語が発せられた場面を仮定したものです。発話者はりんごを見てある心的状態を持ちます。ただ、その心的状態はかなり曖昧です。彼はまだ「実」という語も概念も持ち合わせていないので、彼の前に立ち現れる世界は我々の世界よりずっと混沌としています。

 心的状態が引き金となって、彼は反射的に言語以前の声を発しました。この声は明らかに現実対象(りんご)を直接指示しています。

 以上が「言語前夜」の素描です。発話者は、僕は原始人を想定して絵を描きましたが、例えば現代の幼児などを想定しても問題ないかと思います。

 次に②を見てください。これは言語を発している場面です。時代が下ったのか、年齢を重ねたのか、とにかく発話者の意識はより高度に、より強固になっています。

 彼はりんごを見て、①と同様にある曖昧な心的状態を抱きます。しかし、次の瞬間にはその心的状態はより高度に明確になり、「ミ(実)」という音声に抽出されます。

 これが「このしこりがある密度をもつようになると、やがて共通の意識符牒を抽出させるようになる」ということのおおよその意味(の僕なりの理解)です。

 赤いうねうねの矢印を見てください。もやもやとした「意識のしこり」は高度になっていって最終的に言葉になります。これが、意識が意識自身を言葉として抽出する「自己表出」の過程です。(「意識のしこり」は、本書中では未発達な意識を指して使われていますが、我々が普通に発話するときにも未分化な意識から高度な意識を経て単語にたどり着くという過程が存在すると思います)

 次に青い点線を見てください。言語以前の音声で対象を指し示すとき(①)、その音声は「まさにその現実対象」しか指し示しません。そのりんご、という訳です。

 しかし、「ミ」という言葉で現実対象のりんごを指し示すとき(②)、その言葉は現実対象の背後にあるより一般的な「ミ」をも指し示します。つまり、言語が「指示されたものの象徴」を指示する機能を持ち始めます。言語のこの面を指して「指示表出」と呼びます。難しい言い方になりましたが、「実」という言葉は「実」を指示するよ、という直感的なことを詳しく言っただけです。

 ここに来て、我々は言語を「自己表出」と「指示表出」の二つの側面から捉えることができるようになりました。「自己表出」は表出意識が高まっていって、最終的にある言葉が得られる、という発話者の内面に光を当てたものです。「指示表出」は表出された言語が何を指示するのかという機能に光を当てたものです。

 これらはもちろん別々の二つのものではありません。図②を再び見てみれば、現実対象を指示しようという動機が「自己表出」を生みます。同時に、「自己表出」によってある単語「ミ」にたどり着かなければ「指示表出」は存在しない訳です。

 ここで、僕の書いた図だけではなく吉本隆明の書いた図も見ておきたいです。次の図は、僕の図の②に相当します。(というかこの図に相当するものとして図②を描きました)

図2. 吉本隆明オリジナルの図(p35)

 簡素にして格好のいい図ですが、「指示表出」の矢印がどこを指しているのかが分かりにくいです。僕の解釈では、この図はベクトルを意識して書かれたものだと思っています。

表出のベクトル図

 「意識」と書かれた点から「音声」まで伸びる実線の矢印が総合的な表出全体を表していて、その表出の「現実対象へ向かう成分」が「指示表出」、「意識の高度化へ向かう成分」が「自己表出」、という気持ちであろうと思います。はっきり言って、こういう微妙に理系っぽい図を書かれるとめちゃくちゃ混乱します。が、ないよりいいですね。僕の図と見比べて、わかりやすい方を摂取してください。(僕の図と矢印の位置が違いますが、図の意味がちょっと違うからです)

 さらに自己表出が高度化したのが「図1. 言語発達」の③です。この段階では、現実対象が目前に存在しなかったとしても「指示表出」であることができる、すなわち何かを指示することができます。

 何かとは現実対象の「像」です。例えば実が目の前になくても「実」という言葉で実(という概念・像)を指示できるということです。吉本によれば「ここで有節音声は、はじめて言語としてのすべての最小条件をもつことになる」(p35)のです。

 別のところから引用します。  

こういう言語としての最小の条件をもったとき、有節音はそれを発したものにとって、自己を含みながら自己に対する存在になる。またそのことによって他に対する存在になる。反対に、他のための存在であることによって自己に対する存在になり、それは自分自身をはらむといってもよい。 (p28)

「自己を含みながら」というのは言語というものが「自己表出」であり、自らの意識の反映であることを言っています。「自己に対する」というのは、言語が現実対象との直接の結びつきから離れ、代わりに像と結びついた「もの」として存在し始めることを言っています。

 やや難しいですが、我々は例えば「実」という言葉を現実対象がない場面で使ったり、その言葉について考えたりすることができます。これは、言葉が発話者から独立した、発話者に対するものとして存在しているから可能なことです。

「そのことによって他に対する存在になる」というのは指示表出の話です。言語が何かを指示するのは、他者に何らかの働きかけ(情報の伝達)を行うためだからです。

 後半は以上のことを順序を変えて言っているだけで、指示表出の必要を動機として自己表出が促されるということですが、いずれにせよ言語は発話者の意識の反映でありながら、発話者にも聴者にも対する独立したものであるのです。  

言語の発達

 ところで、ここまでの議論は原初の言語というようなものを念頭に置いていました。しかし、現代の我々も、「どういう言葉で言えばいいだろう?」というような気分になったとき、そしてある言葉に辿り着くとき、やはり自己表出に直面していることになります。

 一方で、我々と図の発話者とでは明確に違うこともあります。それは自己表出の水準です。すなわち意識の高度さです。②の発話者にとって、「ミ」という音声への到達には相当な意識の励起が必要であったにもかかわらず、我々にとって「実」あるいは「りんご」という語で現実対象としてのりんごを指示する際の自己表出の高さは非常に低いものです。

 りんごという概念は基本的なものであり、ほとんど迷わず「りんご」という語でりんごを指示します。この表出はほとんど全くの「指示表出」だ、と言っていいかもしれません。

 我々にはより高度な自己表出があります。吉本隆明が「自己表出」というときの自己表出の高度さを考えてみてください。そこまででなくてもいいですね。なにかをうまく言い表そうとした経験と、そのときに到達した言葉を思い浮かべてみてください。それが我々の自己表出の水準です。

 また同時に、自己表出の水準が高いことによって我々は多彩な指示表出を持っています。例えば我々は「自己表出」という概念を指示することができますが、図②の人には絶対にできないことですね。

 次は、表出が発達していくときにどういうことが起きるのか、です。

表出された有節音声はある水準の類概念をあらわすとともに、自己表出はつみかさねられて意識の構造をつよめ、それはまた逆に類概念のうえにまたちがった類概念をうみだすことができるようになる。 (p38)

 というように、自己表出の発達と指示表出の発達には関わりがあることが示唆されます。自己表出は意識の反映ですから、意識に存在しない概念を表出することはできず、すなわちその概念を指示する指示表出もあり得ないことになります。

 つまり、言語の発達と意識の発達というのは強く関連しています。 結論から言えば、吉本の主張は以下の通りです。

  • 自己表出は、通時的な意識構造の累積を反映する。
  • 指示表出は、共時的な社会環境や人間の関係や幻想を反映する。

 これは概ね直感に沿っているように思えます。(吉本は自分の直感を頼りに理論を構築しているので当たり前かもしれませんが)

 別の言い方をすれば、自己表出は積み重なっていくものなので、その「高さ」が問題になります。意識が高度化するのに従って、より抽象的な言葉や複雑な言葉を表出できるようになっていく、その高度さのことです。

 一方、指示表出は各時代での「広がり」が問題になります。各時代、各環境にどのような事象・現象が存在して、それが言い表されているかということです。

 この二つの事柄はもちろん無関係ではなくて、高度な自己表出があるからこそ、より多彩な指示表出が可能となり、多彩な指示表出によって意識が強化され…という関連の中にあります。

 やや注意したいのは、「自己/指示表出」というのが「自己/指示表出性の強い言葉」というような意味で使われているのか、あるいは同一の言葉の自己表出としての面・指示表出としての面のそれぞれに着目して言ったものなのかがいまいち曖昧だということです。

 前者の解釈はどういうことかと言えば、例えば現代若者言葉の「〇〇み」(よさみが〜)という言葉は自己表出性の大きい言葉だと思いますが、これなどは現代までの自己表出の流れの積み重なりを反映しているということになります。また例えば「スマホ」「wifi」などのたくさんの新しい名詞(後で出てきますが名詞は指示表出性が強いです)が使われるようになったのは社会のデジタル化が進んだから、というように言えます。

 一方で、後者の解釈を取れば、「〇〇み」という言葉の自己表出の面は通時的な積み重なりを反映しているが、一方この言葉が何を指示するか(「よさ」が指示せず「よさみ」が指示するところはなにか)ということは、結局その指示概念を共有する(若者の)共時的・社会的な合意に負うところが大きい、というような考え方もできます。

 この二種類の読み方はそもそもそんなに別のことを言っているわけではないですが、このあたりから「自己表出」「指示表出」という言葉が割と広く曖昧に使われていくので、ややしつこく言ってみました。

 どちらかというなら吉本は前者の意図で言っている気がしますが、両方のニュアンスが混ざっているという感じで理解するのがいいかなと思います。

 とにかく、時代と共に自己表出は高度になり、それに従って指示表出で支持される範囲が広がっていきます。

残りの話題

 ここまででいわば一章のメインパートは終わりですが、次章以降への準備として次の二つの話題が取り上げられます。すなわち、「品詞と自己表出・指示表出の関係はどのようなものか」ということと、「音韻・韻律と自己表出・指示表出の関係はどのようなものか」ということです。

品詞

 私たちは名詞や動詞、助動詞、助詞など様々な品詞で文を構成しますが、その中には自己表出性が強いもの(自己表出としてのアクセントをひいて現れる言語(p49))と指示表出性の強いものがある、と吉本は言います。 無論、両者は単独で存在するものではないので、傾向としての話です。

 吉本は和歌中に用いられる品詞を例示して解説するのですが、それは実際に読んで確かめていただくことにして、ここではもう少し簡単な例で行こうと思います。  

  1. 象は鼻が長い
  2. 象の鼻が長い
  3. 象は鼻が長かった
  4. 象は鼻がすごい
  5. 象は足が長い

 a〜cは少しずつ違いますが、このような差は、発話者の意識の差が表出の差となったものだというのです。指示内容ももちろん少しずつ違うのですが、それよりもその内容に乗っている表出意識が違うのだ、ということです。

 一方で、d,eはそもそも「言っていること」が違います。「鼻」と「足」では指示する像が違います。「すごい」と「長い」も喚起するイメージが違います。

 これらから、助詞や助動詞は自己表出性が強く、名詞や形容詞は指示表出性が強いということを主張するのに大きな違和感はないと思います。 また、指示表出性の強い名詞や形容詞のうちでも、形容詞は比較的自己表出性も強いというような差があることも納得できると思います。 bとcを比べれば、少しの差ですが助詞より助動詞の方が指示表出性が強いと言えそうです。

 以上、法則というよりは経験則ですが、吉本は品詞を自己表出性の強い順に次のように並べます。  

 感動詞  助詞  助動詞  副詞  形容詞  動詞  代名詞  名詞

 実感と合致しているでしょうか? (この結論をもって学術的な結論としようというような野望は吉本にもないので安心してください。自己表出・指示表出という概念を使ってみるとこういうふうになるよ、というデモンストレーション的なものだと思います)

韻律と音韻

 最後に、韻律と音韻の話をします。

 吉本は発音された言語のことを「有節音声」と呼びます。言語の成立条件として、それが区切りをもっていることは必須だからです。

 区切りを持つ音声には、「どう区切られているか」と「各区切りでどの音声が採用されているか」という二つの特徴が想定できます。 日本語に限定して言えば、何音の区切りがどう並んでいるか(2音なのか3音なのか)ということと、その区切りの中の言葉が「あ」なのか「く」なのか「ね」なのかということです。 この二つのことをここで「韻律」と「音韻」と呼びます。

 吉本は「原始人が祭式のあいだに、手拍子をうち、打楽器を鳴らし、叫び声の拍子をうつ場面を、音声反射が言語化する途中に考えてみた(p47)」と言います。この想定が歴史的に妥当かどうかはそんなに重要ではなく、言語を使う我々の原風景としてそのようなものを想定すれば良いということです。

 この場面において、打楽器のリズムになぞらえられるような音節の区切りが発生し、これが韻律となる一方、その各音節で具体的に発される音が音韻となるということです。

 ここで吉本はこう言います。  

このような音声反応が有節化されたところで、自己表出の方向に抽出された共通性をかんがえれば言語の音韻となるだろうが、このばあい有節音声が現実的対象への指示性の方向に抽出された共通性をかんがえれば言語の韻律の概念をみちびくことができるようにおもわれる。だから言語の音韻はそのなかに自己表出以前の自己表出をはらんでいるように、言語の韻律は、指示表出以前の指示表出をはらんでいる。(p47)

 わ、わからね〜〜〜〜。逆じゃない? ある音声の指示対象を決定づけているのは音韻以外にあり得ないし。

 ……と初見時に思って、ずっと腑に落ちていなかった箇所です。

 今はちょっと理解が進んできたので、頑張って説明を試みます。

 まず、今我々が想定している原始人の発する音声は言語以前のものです。ですから、例えば火を囲んでいて、火を指して「アウアウ」という音声を発したらそれは火を指示するという程度の指示性です。というか、発されたあらゆる音声は現実対象への反射としてしか存在しないので、音声はまず初めには指示表出以前の指示表出として存在します。またこのとき、音韻が任意であるときには音声はまず韻律としての共通性を持つことになります。

 それを基点として、意識にあるしこりが生じるに従って音韻が共通性を持ち始めます。これが自己表出の萌芽な訳ですから、やはり音韻が自己表出以前の自己表出を孕むということが納得されます。

 またこういう考え方もできます。一旦先ほどの祭式の場面から離れて、言語以前の言語(音声)で何らかのやりとりが行われる場面を考えてみます。これは対他の音声=指示表出的な音声です。ここで例えば、音声が二語文的に発されるという想定をしてみます。「アウア、アウアウ」というようなことです。

 このとき、前半・後半が主語・述語に対応するというような未熟な統語的性質が獲得されている場面を思い描くことができます。これは指示性(対他)のために獲得された共通性な訳で、指示表出以前の指示表出を孕むというのも納得できそうです。

 まとめると、韻律−指示表出という関係は少し直感的でないですが、少なくとも音韻は自己表出を契機として生まれるものです。自己表出の高度化によって様々な音韻を備えた単語が生じれば指示表出の範囲は広がるのですが、それは音韻が出来上がった後の話です。

対象との直接の指示相関性をうしなってはじめて有節音声は言語となったため、わたしたちが現在かんがえるかぎりの韻律は、言語の意味とかかわりをもたない。(中略)リズムが言語の意味とかかわりを直接もたないのに、指示の抽出された共通性とかんがえられることは、言語がその条件の底辺に、非言語時代の感覚的母斑をもっていることを意味している。 (p47)

 吉本自身もすっきりしないようなことを言っていますが、僕の意見としては、前述したように韻律の指示性というのは統語的な雰囲気として残されているような感じがします。

 例えば和歌・短歌において各句にどんな語が配置されるか、あるいは各句にある単語を置いたときにどういう風味が添加されるかということには一定の共通性があるように感じます。それによって例えば「草枕」が第三句に出てきたら四句への枕詞であろうとか、そういう示唆が得られるので、韻律の指示性ということはそのように現れるのだと思います。

 これは邪推ですが、吉本が韻律について考えたときに、「これは自己表出に関係するものではない」という問題にまず直面したのではないかと思います。日本には定型詩があり、決められた韻律に語を並べるのであって、韻律は発話者の意識の発露ではなく既存のものです。

 それにもかかわらず韻律は詩に何かを付与します。「何か」とは? 自己表出でないなら指示表出であろうか、と考えてみたら「そうだ」と納得されたのではないでしょうか。

 さて、ずいぶん長くなってしまいましたが、今回はこれで終わりです。

 ここまで読んでくださったんですか? 本当にありがとうございます。ぜひ『言語にとって美とはなにか』を買って読んでみてください。

*1:引用元:吉本隆明『言語にとって美とはなにか』角川文庫, 1982年. 古本屋で買った古い版なので、最新の版とは齟齬があるかもしれません、すみません。以降のページ数は全て同書からの引用です。