blog in 箪笥

やっぱりとりとめもないことを

誤用と嫌悪感(「耳触りがいい」について)

今日、会社の同期と「耳ざわり」の話になった。

彼が言うには「耳触りのいい言葉」というような用法は間違っている。「耳障り」が正しい。(この「障り」は例えば「差し障り」の「障り」だ)

正しいんだろうけど、僕は「ふ〜ん、ムカつくぜ」と思った。だって「耳触りがいい」って普通に使うし。 だから彼に食ってかかった。

僕はこういうのは「賢そうなことを言った方が勝ち」ゲームだと思っているので、用例検索エンジンを使って明治の用例とかを示した。実際結構見つかったし、有名な作家も使っていた。

でも彼は引き下がらなかった。彼は彼で「耳触りがいい」という言い方にムカついているから。

そんなこんなでやりとりをしているうちに、さっきの僕の反論は全然本質的じゃないなってことに気づいた。


ちょっとここで脱線して「ら抜き言葉」と「れ入れ言葉」の話をさせてほしい。「食べられる」と「食べれる」、「行ける」を「行けれる」というやつだ。

僕の感覚では「ら抜き」はカジュアルな表現として使うけど、「行けれる」は明らかに「間違い」に感じる。

なぜか?

多分、「ら抜き」については「まどろっこしいから省略している」という理由づけが(主観的に)存在する。一方で「れ入れ」の方は「れ」を入れる(主観的に)合理的な理由はない。*1

つまり、用例が一般的かどうかとは関わりなく、「間違っている」という感覚が大事なんじゃないかってことだ。もしくは、「間違っていない」という感覚が。

そこで、僕としては「耳触り」に立ち返って、こいつが(僕にとって主観的に)間違っているのか、それとも(自分を納得させる程度の)合理性を持っているのかはっきりさせる必要が出てきた。

ここから話が複雑になるのでちょっと登場人物を整理する。

①「耳障り」:耳に障る。うるさい。

②「耳触り」:聞いた内容に対する印象。良かったり悪かったりする。

③「耳触り」:耳に触れられた感触。肌触り、手触りなどの仲間。良かったり悪かったりする。

②が今回の被告人だ。③はたった今登場した新人物であり、ここから重要参考人になってもらう。

僕の考えでは①と③は「正しい」。「手触り」に比べて「耳触り」というのはあまり使わないけど、「体の部位」+「触り」という表現は全部ありうると思う。歯触り、足触り、舌触り…。 だから「耳触りがいい」というフレーズ自体は間違っていないはずで、ただ、②とは違う意味を持っている。

③が①の影響で新しい意味を持ったか、①が③の影響で間違った使われ方をしたのが②なんだと思う。

そこで、「耳触りがいい」許容派としては次のような主張をしてみることができる。

②は③の比喩的な用法だ。たとえ①の影響を受けていたとしても誤用とは言えない」

つまり、例えばふわふわの枕みたいな、耳に触れると心地いいものを指して使う「耳触りがいい」という表現を、「聞いた印象が心地いい」ということを表す比喩として使っているんじゃないか、ってことだ。そうだとすれば②の「耳触りがいい」という表現にも一応の合理性はあるように思われる。

一方、これに対する同期氏の反論は

「聞いた内容の印象」のことを「耳触り」という触覚で喩えるのには違和感がある

というものだった。ここにきて、「間違い」の判定基準はこの比喩を許せるかどうか、というところまで煮詰まってきた。

この比喩が成立しないなら、「耳触りがいい」を使う合理的な理由は存在しないし、単に「耳障り」を取り違えて使ったと言われても仕方ない。

変な例を出すようだけど、「目触り」という言葉は存在しない。(目に触ると痛いから)だから、「目触りがいい」という言葉はどう考えても間違いだ。「耳触り」はどうだろうだ?

結論を言えば、僕の負けかもしれない。

耳に触れる感触で「聞いた内容の印象」を喩えられるか? 字面を見ると妥当な気もするけど、感触としての「耳触り」と「聞いた印象」は直感的にはかなり隔たりがある気がしてきた。まだ「肌触り」とかのほうが共通点がある。「肌触りのいい言葉」は比喩として成立するかもしれない。

ここまで考えて、「耳触りがいい」にムカついていた同期の感覚がわかった。彼が正しい。

でも僕は負けを認めるのはムシャクシャするので、「明治から使われている誤用なら、現代においてはもう誤用とは言えない」って強弁してお茶を濁しておいた。

*1:「れ入れ」の仕組みに一応触れておく。日本語の動詞には対応する「可能動詞」を持つものと持たないものがある。例えば「行く-行ける」「流す-流せる」など。一方で、可能動詞を持たない動詞(「食べる」とか)では「れる・られる」をくっつけて(食べられる)可能表現にする。後者の動詞の方が多いから、可能表現には「れる」がつく、という感覚ができてしまって、「行ける」などの可能動詞にも(重複して)「れる」をつけてしまうのが「れ入れ」。逆に、「れる」をつけるタイプの可能表現を無理やり可能動詞っぽくしたのが「ら抜き」だ。雑に言えば「行ける」と「食べれる」って似てるね、ってこと。「ら抜き」のいいところは受け身と可能を分けて表現できるところ。「食べられる」だと捕食されているのか、何かを食えるのかわからない。