最近のネタツイは面白すぎる!と言いたい俺たちが温泉に行ってきた時の日記、好きなドラゴン発表惣菜と大喜利と題詠文学、色々うじうじ考える
友人Aが露天風呂からいきなりザッパァと立ち上がって、「最近のネタツイは、面白すぎる!」と叫んだ。だから俺もザッパァと立ち上がって「最近のネタツイは面白すぎる」と唱和した。一応断っておくと他に客はいなかった。
俺たちは最近のネタツイが、本当に地を転げ回るほど好きで、石に刻んで1000年後に残したいほど好きだった。
俺は「カニを細くした虫、エビ*1」という俺たちのお気に入りのネタツイを暗唱し、Aは湯の中を笑いころげた。このツイートを口に出すとどんな不機嫌も吹き飛んで幸せな気持ちになることができたし、今でもできる。
ひとしきり笑った後で、Aは真面目な顔になって、「最近のネタツイって、言葉が面白いだけじゃなくて、言葉が言葉を破壊している」というようなことを言った。俺はその意味をちゃんとは汲めなかったし、彼としても言いたいことを十全には言えていなかっただろうけれども、その気持ちは痛いくらいにわかった。俺たちは、ネタツイを特別なものとして語りたかったのだ。
それから、俺は折に触れてはネタツイについて考えるようになった。はじめに思いついた言葉は、「最近のネタツイは脱構築的である」ということと「最近のネタツイは短詩の領域にある」ということだった。でも、それらの言葉は俺たちが大好きなネタツイそのものと比べたときにひどくみすぼらしく見えたので、まあいいかと思って捨てておいた。
そうこうしているうちに、大喜利が流行ってきた。ちゃんというと、お笑いにアンテナを張っていない俺のような人間にも「流行っている」と感じられるくらいに流行ってきた。ということは、お笑いが好きな人間の間では何年も前から流行っていたに違いない。
大喜利は面白くて、それは幸せなことなんだけど、なぜ寂しい予感がするかというと「最近のツイッターが面白すぎるのは、大喜利をはじめとするお笑いが流行っていて(技術の輸入などによって)インターネットの面白い人のレベルが上がっているから」という、非常に平凡な語り方が正解であるみたいだからだ。
バカみたいな話だが、俺はお笑いに疎く、 2023年のM1を見てびっくりした*2。漫才って面白すぎる! 超面白いネタツイみたいなのが絶え間なく出てくる! そりゃあ、というか、こういうものを好きで研究していたらいいネタツイも出てくるってもんだな、って笑ったりしょんぼりしたりした。
ネタツイと漫才はそうは言ってもかなり違う形式で、俳句と自由詩くらい違うけど、ネタツイと大喜利はかなり近接した形式だ。俳句と連俳くらい近接している。だからもう言い逃れはできないというか、大喜利文化がインターネットに入ってきて(もしくはネタツイという素地があって大喜利が流行ったのかもしれないけど、その辺はすでに書いたように超疎いので知らない)ネタツイが面白くなったというのは一つの真実っぽい、と納得して、ネタツイを特別なものとして語るのは諦めてしまった。
そうして、段ボール箱の上でレンチンのご飯を食いながらネタツイを見たりYouTubeで大喜利を見たり、漫才が面白いと知ったので漫才を見たりして漫然と時間が過ぎた。あとは、急にボカロPになろうと思い立って、それからニコニコ動画を見るようになった。ニコニコ動画はド世代なのに全然触れずにここまで歳を重ねてきたので、二十代後半にして新鮮にニコ動を面白がるみたいな珍しいことになった。
ニコ動にはボカコレというボカロ曲の投稿祭があって、2024年の2月には『好きな惣菜発表ドラゴン*3』の二次創作が大量に投稿された。
好きな惣菜発表ドラゴンのオリジナル動画自体は前からあったけど、ボカコレ冬に合わせて二次創作のお膳立てがされて、つまりは大喜利会場になった。やはり二次創作の大半は『好きな〇〇発表ドラゴン』で、それは普通の大喜利だと思うんだけど、それに混じって『好きなドラゴン発表惣菜*4』っていうのがあって、俺はパシン!と膝を叩いた。 『好きな〇〇発表ドラゴン』と横並びで『好きなドラゴン発表惣菜』が出てくるってどんなスピード感なんだよ、と感動したのだった。
好きなドラゴン発表惣菜、っていうのはお題に答えるんじゃなくてお題を崩しているわけで、好きな惣菜発表ドラゴンブームが一ヶ月とか続いた後期の方に出てきてもおかしくないひねり方なのに、ネタ曲投稿祭の1日目に発表されている。すげえ。
そんな気持ちで今度は大喜利動画を見ていると、ある意味で似たようなケースがあることに気づいた。たとえば「『背中の傷は剣士の恥だ』みたいに言うな」というお題、つまりはこの題がツッコミになるようなボケを提示しろ *5と言うお題に対して、初手で「みたいに言ってすみませんでした」という回答がある*6。これはわざと題を誤読して答えているわけで、言うまでもなく題自体をひねっている。
つまり、現代のおもしろと言うのは、題をいじくりまわした挙句に題自体を脱臼させ始めるの“ではなく”、初めから「題自体をひねる」という手札が選択肢に入っている。
俺は俳句に片足を突っ込んでおり、俳句はある方向から切り取れば季語を題として575を作るという題詠文学だ。というか、季語を置いておいても俳句の575や短歌の57577という字数制限は題的な性格が強い。俳句なんかは短く見積もっても明治くらいからずっと題に真っ直ぐ答え続けてきて、行き詰まっては少しずつ題をスライドさせて、その過程で自由律俳句が生まれたり無季俳句とか口語俳句とか色々な拡張形式が生まれてきた。そういう時間規模で動いている文芸を片目で見つつ、「題をひねる」が初手にあるジャンルをもう片目で見ると、初めて大阪に行って高層ビルを見たときみたいな気分になる*7。
そういえば、俳句と大喜利を重ね合わせて考えると共鳴する部分がもう一個ある。大喜利の人が使う「正解」という言葉があって、「その回答がその題に対するもっとも面白く、正しい回答だ」という直感のようなものを指しているっぽいのだが、この感覚は俳句にもある。
俳句における「正解」は面白いとかではなく、「季語を限りなくうまく捉えている」みたいなことになり、それをたとえば俳人・評論家の筑紫磐井は「本質的類想」と呼んでいる*8。俳句にとっては「正解」があることは悩みの源泉でもあり、そのことを認めてしまったら「正解」に近づこうとするだけの行為って創作なんだろうかとか、いや正解は実際のところはないんじゃないかとか色々な面倒な話が出てくるけど、そんなことは一旦どうでもよくて、とにかく大喜利は文化として「正解」の存在を認めている。短い時間の中で「正解」がでる危険があるからこそ題の解体も初期の手札として持たないといけない、というような事情もあろうと思う。
だから、大喜利やそれに類するおもしろコンテンツを題詠文学になぞらえるとするなら、一瞬の間に形式が生じ、正解が出され、形式が解体されるというほとんどライフサイクルに近いようなことが各お題ごとに行われていることになる。
そのスピード感だよ、と思った。だからこの面白さはポルノに近い。旧来であれば人の一生くらいの時間感覚で起きていたようなことが一瞬のうちに激しく始まって終わり、一回性のものとして消費される。最高だ。最高の娯楽、大喜利。そしてその流れを汲むネタツイ、というところで許してもらえないだろうか。あの日の俺たち、聞いているか。
*1: カニを細くした虫、エビ pic.twitter.com/q3ft02jQWP
twitter.com 2年前のツイートなので、最近なのか? と思われるかもしれないが、温泉に行ったのは多分去年のことで、何よりサラリーマンにとって1年はあまりに短い
*2:M1は毎年見ているはずだが、とにかく 2023年はびっくりした
*5:ほぼ全く川柳というか前句付と同じ構造で面白い。
*7:俺は京都出身で、京都の建物は条例で全部低い
*8:筑紫磐井『伝統の探求〈題詠文学論〉: 俳句で季語はなぜ必要か』https://www01.hanmoto.com/bd/isbn/9784904800423