blog in 箪笥

やっぱりとりとめもないことを

漫才コンビ十九人を見て思ったこと、舞台ぼっち・ざ・ろっく!を思い出して思ったこと、つまり作中主体について

十九人という漫才コンビを最近知った*1

YouTubeにもいろいろネタがあがっていて、面白いから見てほしい。何が面白いかというと、まず目につくのはボケ担当のゆっちゃんw(w含めて芸名)が大雑把に言えば天然というか、ほっておいても突飛なことを突飛と思わずに言いまくる、しかも変わった動作を交えながら言いまくるみたいなキャラで、つまりは小説でいうなら文体みたいなものが強烈であること。もう一つは、というか漫才コンビとしての特徴というのはこちらなんだと思うけど、ネタの構造がちょっと変わっていて、「その場で演じられていること」自体がネタの言及対象になっている。

たとえば「ツチノコ」というネタではツッコミの松永くんにツチノコ役をやらせておいて、「お前はなぜツチノコのふりをしている!?」みたいに詰め寄るところがある。

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これって、「人が何かを演じることの変さ」みたいなものを扱っているわけで、なにか複雑なことがそこで生じている。もっと素朴に言うならば、観客が当然だと思っていることが裏切られるので面白い。

「キャラが独特」と「複雑なことをやっていて面白い」という二つのことが同居しているのが重要なんだと思う。ゆっちゃんwの文体が毛羽立っている、整っていない、ことによって虚構線があいまいになっている。漫才師がマイクの前に立ったらそこから演技が始まるのだということを我々は知っていて、そこでしゃべっている人は「役」であって本人ではないわけなんだけど、「それ以外のやり方で話せない」というように見える(あるいは見せている)人が漫才をやるばあいに、それがどの程度役でどの程度本人なのかが観客からはわかりづらくなる。役でなくて本人に見えれば見えるほど、舞台上の出来事は観客の方に引き寄せられていく。

素直なコントだったら、「ツチノコ役」は完全に「ツチノコ」である体で話がすすむ。観客から見れば「ツチノコ役」は松永くんである。一方ゆっちゃんwはその間のどこかにいて、ツチノコと松永くんの中間くらいの存在に本気で対峙している、みたいに見える。見えるからハラハラするし面白い。

なんならインタビューで本人も「ツチノコじゃなくてそこにいるのは松永くんだ」となるシーンで「本当によかった!」と思うと語っていて、どこまでほんとなんだと思うけど、その温度でやっているなら観客から本気に見えるのは当たり前なのだろう。 www.youtube.com

話をスライドさせると、短歌に「作中主体」という用語がある。

例えば

お願いねって渡されているこの鍵を私はなくしてしまう気がする   東直子

という短歌があったら*2、鍵をわたされているのが作中主体で、作中主体と作者の東直子さんはイコールでない。ひとつの観点としては東直子さんはそんな経験をしていない可能性があるし、別の観点としては、作者名が併記されると読み手としては鍵を渡されているのは女性であろうという気がするけれどそうとは限らないということもある。

でも大雑把には短歌において作者と作中主体はかなり近い存在であって、最近の短歌ブームも基本的に自分自身の感情の表現として短歌が選ばれているように見える*3。僕たちは「本人の声」を求めているようにも感じる。お前って何者なんだ?

漫才での役と作中主体って呼び方が違うだけでかなり似たものだと思うけど、短歌は単なる文字なのに作中主体は作者であることが自明に思えて、漫才の役は顔が見えているのにも関わらず演者本人とは違うということに観客は薄々気づいている。

似た話だけど、ぼっち・ざ・ろっく!の舞台(いわゆる2.5次元といういうやつだ)のことを思い出した。ぼっち・ざ・ろっく!の主人公「後藤ひとり」はコミュニケーションが苦手ですぐ自分の世界に入り込み、よって奇行も多い、というようなキャラに設定されている。舞台ぼっち・ざ・ろっく!で後藤ひとりを演じた守乃まもさんは舞台を見た観客からは「リアル後藤ひとりだ!」と大評判だったのだが、彼女も役と本人の人格があいまいであることによって魅力を獲得していた。

守乃さんはつねに体をそわそわと動かしていたり、独特な言葉選びで急に話し出したと思ったらしりすぼみに話すのをやめてしまったりして、それは舞台が終わった後のカーテンコールでもそうで、そのような独特のキャラが大人気だった。アニメ(原作は漫画)の舞台化だから、役と本人が決定的に違うのは漫才より明らかなんだけど、その役を演じる際に本人のキャラクターがにじみ出てしまっていて、そのこと自体が喜ばれていた。彼女は舞台経験はなかったそうなので、起用した監督の狙いが完全に当たったのだろう。

実際には後藤ひとりの「コミュニケーションの下手さ」と守乃まもさんの「コミュニケーションの下手そうさ」っていうのは微妙にちがうので、「守乃まもはリアル後藤ひとりだ!」みたいな言い方は不正確だと思うのだけど、その心としては、役に本人がにじんでしまっている(かつその本人のキャラクターが役と親和性がある)ために役と本人の区別が曖昧になり、役が(つまり後藤ひとり役が)目の前に実際にパーマネントな存在として顕現している(ように見える)という興奮なのだと思う。

観客はいつでも本物を消費したいと望んでいる。本当の話を聞きたいし、裏側を知りたい。隅々まで知りたい。それはもちろん望みすぎではあるのだけれど、さまざまなアクロバティックな方法によって「ほぼ本物」が流通しているのが現代で、それは強烈で、いくらかの危うさもしかし含んでいるのだとおもう。危うさをギリギリのところでダメな方に倒さないからアクロバティックなのだと言ってもいいかもしれない。

*1:翻訳家・書評家の鯨井久志さんが言及していたのがきっかけで、彼が紹介してくれるお笑いやSFは全部面白いのですごく助かっていると同時に、なんでこんなこと書いてるんだって感じだけど多分同い年なので僕は勝手に彼を目標にして生きているようなところがある。 https://twitter.com/hanfpen

*2:この歌大好き。僕は鍵をなくし続けているから。

*3:現在的な短歌ブームと、過去からの継続としての短歌は分けられないけど同じとも言えない気がする。短歌の表現はかなり幅を持ったものだけれども、その一部の態度としての「自身の生活を映す」みたいな面が特に流行っているように思う。とはいえ僕は短歌のインサイダーではないので、すべて撤回する必要があるかもしれない。