blog in 箪笥

やっぱりとりとめもないことを

歌評『四百センチ毎秒の恋』

はじめに

歌人の西村取想くん(@N_torso)が去年(2019年)の11月に歌集もどき『四百センチ毎秒の恋』を出版しました。👏

booth.pm

この本は、彼が想い人Kさんに贈った154首の短歌とKさん本人の感想を中心としていて、主要部分は彼のブログで読めます。

con2469.hatenablog.com

この本自体について思うところは別の記事で書きました。

tancematrix.hatenablog.com

本記事では、彼の短歌を前後の文脈を持たない独立した作品として鑑賞していこうと思います! いざ。

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類別

「あなたが好きだ」「恋が報われなくてつらい」という趣旨の歌は定番ながら非常に多い。

冒頭の方からざっと「恋が報われなくてつらい」を抜いてみる。

このからだピーマンのごと切り刻むさすればきみは好いてくれるか

きみの住むアパルトマンを見上げてる冴えない雨に打たれながらも

箸を持つきみが見つめるタコわさになりたいぼくはわさびが苦手

石ころをきみに見立てて蹴ってみる溝ではなくて恋に落ちてよ

「アパルトマン」以外は身近な小道具に仮託して恋情を歌うものだ。

取想くんは飄々とした(?)人柄だからか、恋の歌ながら深刻になりすぎない歌が結構多くて、特色の一つだと思う。

「どれだけつらい思いをしたら好いてくれるのか」そんな主客転倒かつ痛烈な思いも、ピーマンも同じ俎上だ。

Crazy He Calls Me

望むならどんなことでもしてみせる 狂ってあげる 愛してくれる? 

西村取想『青い鳥*1』より

これも取想くんの歌だが、一種の変奏と見ることができるだろう。「狂ってあげる」 と見得を切るスタンダード曲の主人公に対して、「ピーマンのごと」 としか言えない等身大の取想くん。

「狂ってあげる 愛してくれる?」なんて言われたら「ウッ」となってしまうが、「この体をピーマンみたいに切り刻むから...」なら「いや、切り刻んでいらんし」と返すことができる。憎めない人格がにじみ出ていて、僕は好感を持つ。

ただし、歌としての完成度は微妙だと思う。好意的に解釈すればファミレスかどこかでピーマンが切り刻まれている料理を二人で食べながら(あるいは切り刻みながら?)の場面とわかるが、そう仮定したところでこの歌から情景を思い浮かべるのは無理だ。また、「さすればきみは好いてくれるか」という漠然とした句だけで「自分を痛めつけたら好いてもらえるだろうか」という卑屈な思いに共感を誘うのは難しいのではないか。

箸を持つきみが見つめるタコわさになりたいぼくはわさびが苦手

これも似た趣向で、小物を提示しつつ思いが届かない切なさをほのめかしている。僕は初め、これも「ピーマン」の歌と似たり寄ったりであまりいい歌ではないと考えていたのだが、最近になって随分技巧が冴えていることに気づいた。

まず、「タコわさ」によって「ぼく」と「きみ」が居酒屋にいることがわかる。飲んでいるのは日本酒だか焼酎だか、とにかくうちくだけた雰囲気の席であることもわかる。「ピーマン」とは大きな違いだ。

視線の移動について。まず「箸を持つ」手のクローズアップから入る。「きみが見つめる」で「きみ」の目や顔、「タコわさ」でもう一度箸の先。

一読したとき、「箸」「タコわさ」という近い場所への視線が「きみ」 によって分断されてしまっているような印象を受けたがそうではない。丁寧に読むと、「箸」「きみ」「タコわさ」は同一直線上にあるのだ。「ぼく」が前を見る。「箸を持つ」手がある、やや奥に「きみ」がいる、「きみ」の視線に合わせてピントを戻せば「タコわさ」がある。この時点で「ぼく」もタコわさを見つめている。

すなわち、「箸を持つきみが見つめるタコわさに」というタコわさの説明によって「ぼく」の位置や視線が暗に描写されている。さらに、

ぼくはわさびが苦手

どうして自分が「わさびが苦手」であることに思い至ったのか。それは「きみ」に向かって「ぼくは食べられないよ」と伝えたからに他ならない。「きみ」が勧める「タコわさ」を断らなければならない切なさ、「きみ」に好かれるなら「タコわさ」にだってなりたいくらいだけれども、わさびが苦手なせいで、些細なことではあるがある意味で「きみ」を拒絶し距離を離してしまった気がする。

......という歌だ。この解釈があっているのかわからないけれども、あっているとしたら言外にもう一つのストーリーを併せ持った豊かな世界を持つ歌だと言わねばなるまい。

「アパルトマン」 は整った姿をした歌だが、内容が歌謡曲の歌詞のようにありきたりなので(本人にとっては切実な実体験が元になっているのだろうが)あまり褒めるところがない。

割とこういうタイプの歌も多い気がする。もちろん、100首作って100首全てが絶唱である必要はないので、ありきたりな歌があってもいいのだが。

夜風が押し出しているカーテンにきみが隠れていてほしかった

たそがれに道を行き交う人々がすべてあなたに思えてしまう

楽しいね灰色のシャツ染め上げるゲリラ豪雨もあなたとならば

冗談を風に乗せては見合わせた笑顔はきっと磁石なんだね

もちろん、例えば「離れている恋人がカーテンに隠れていたらなあ!!」という切実な思いには共感できるけれども、歌のなかに新たな気づきがないから、心の眠っている部分を刺激されたりはしない。

ついでだから、失礼ながらもっと極端な、何の技巧もない歌もあげておく。想像だが、これらの歌は作品というより、恋人(だけ)へ贈るという性格が強かったのではないだろうか。結局、思いを伝えるのは修辞ではないので。

くだらない冗句で笑い合っているきみがいなけりゃ笑わないのに

違うちがう眼鏡じゃなくてあくまでも眼鏡をかけたきみがかわいい

映画館出ても眼鏡をかけているきみの映画の主役になりてえ

(「映画館」の歌について。「きみ」は目の悪さが半端なために、映画館であるとかそういう遠くをしっかり見る必要に駆られた時にしか眼鏡をかけないのだろう(僕もそうだ)。それが、映画館を出ても眼鏡をはずし忘れてそのままかけている。「きみ」が眼鏡をかけているということは、今見ているこの世界も映画なのか? と主人公*2は現実を映画に見立て、それならばその映画の主役になりたいと述べている。内容としては凝っているので、一緒にされるのは不本意かもしれないが、やはり「きみの映画の主役になりてえ」で心を動かすのは無理だろう)

映画といえばで、次の歌を挙げておく。

ぼくたちは世界の隅でキスしよう主演女優は月に譲って

これは印象的ないい歌だと思う。四句の「主演女優」が遡って「世界の隅」に作用して、歌全体を映画の世界のように見せている。世界の「隅」というからには周りに建物が想像され、それは映画に出てくるような素敵な建物であり、映画のような素敵な夜に包まれている、という具合である。

描写

内容がほとんどないような歌がある一方で、しっかり対象を描写した歌もあって、いい歌が含まれている。「タコわさ」もその中に入れられよう。

灰色のTシャツ一枚黒ズボン手にはエビアンきみが好きだよ

コーヒーが苦手だったねそういえば 平たくなったストローの口

誇らしい顔したきみが皮肉だと気がつくまでの二秒を愛す

エビアン」 。この歌集には胸焼けするくらいの「きみが好きだよ」が詰まっているが、Tシャツ、ズボン、ペットボトルと並べられた「きみが好きだよ」はさりげなくて、確かにそこに「ある」 感じがする。

「ストロー」。この歌は人気あるんじゃないかな。俗にいえば「あるある」を上手にすくい取っている。でも恋歌という感じはしない。むしろ、久しぶりにあった友人であるとか、そういう哀愁を感じさせる。

ふるさとの訛なくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし  寺山修司

を思い出すからかな。ふるさとの訛りをなくした友にストローを噛む癖は残っていたとしたら愛せるよね。

「二秒」。「誇らしい顔をしたきみが皮肉だと気がつく」という語句を読んで、読者が意味を理解するちょっとしたタイムラグが「二秒」と重なって趣向を加えている。

描写というと簡単なようでいて、何が読者に響き何が響かないのかということを事前に予測するのは作り手としては難しい仕事だと思う。取想くんがよく食べ物や小さい小道具に目を向けているのはディテールを描かんがためだと思うが、そのいくつかは成功し、いくつかは失敗する。

増えてゆくRe:Re:Re:はいつまでもきみの心に届かない恋

台風が来たら電話をするからと言ったあなたにかけたい電話

携帯電話を題材にした二首だが、「増えてゆくRe:Re:Re:」の持つ映像はせいぜい携帯電話の画面、一方「台風が来たら電話をする」というのはその季節であるとか台風前夜のたかぶりを十分に描いている。

どちらの事実も作者にとっては同じくらいリアルな「事実」だったのだろうが、読者の受け取る情報の量は大きく異なる。

他にも、効果的な題材が捉えられているものを鑑賞したい。

葉は染まるふたりで海を見るためのブルーシートを捨てられぬまま

「夢みたい」つぶやくきみよ目覚めてもスーパーボールはそこにあるのだ

「ブルーシート」。「海を見るためのブルーシート」が実感を与えている。「レジャーシート」や「テント」ではなく「ブルーシート」を買う感じが主人公の不器用さを表しているようで良い。

細かいことをいうと、「葉」と現実の紅葉に目が向けるより「葉染まるふたりで海を見るためのブルーシート捨てられぬまま」とブルーシートを強く提示する方がスッと通る気がするが如何。

「スーパーボール」。この小物が状況説明を全て背負っている。二人は祭りに行き、スーパーボール掬いをした。祭りの情報が歌の上から省かれているおかげで、夢から醒めた後の静寂が印象付けられる。思わず、歌中の「スーパーボール」を読者である僕もじっと見入っているような気持ちにさせられる。

アフォリズム・比喩

結構多いのが<ooはxxなのだ>と<その理由など>の組み合わせ。これは佳作が少ないように思う。

冗談を風に乗せては見合わせた笑顔はきっと磁石なんだね

人生の良薬なのだこの恋はこれほど苦いものであるなら

交わらぬ平行線は重なれる唯一の線だ傘をひらけよ

伝わらぬ想いが恋を焦がしてる半導体は熱を生むのだ

「人生の良薬」 については後述する。

「傘をひらけよ」はそれなりに良いが、この歌は「傘をひらけよ」でもっているだけで「交わらぬ平行線は重なれる唯一の線だ」という理屈に感動を見いだすのは難しい。それから、「重なることができる」を「重なれる」 というのは言葉の上で若干無理ではないだろうか。

僕は比喩がそれだけで美しくあることはほとんどないと考える。比喩は、元の内容とかけ離れたイメージをもたらし世界を広げてくれる。しかし、イメージを与えることではなく喩えること自体を目的とした比喩は何ももたらさない。 「磁石」が冗談を言い合う笑顔にどんなイメージを付与しただろうか。

一方、「半導体」は「恋が焦げる」という抽象的な内容に対して、素子が焼け焦げる「ジジジ」という音や臭い(取想くんはトランジスタが焼ける臭いを知っているのだろうか!)といった具体的なイメージを付与していて比喩としては成功している。ただ、電気電子工学科卒から言わせてもらうと、熱を生むのは抵抗だ。電流が流れなければ熱は発生しない。

対して、この形で僕が良いと思ったもの。

使ってる言語がどうも違うのだ「好き」って言葉がとても悲しい

これは比喩ではないけれども。

「好き」が噛み合わないことをテーマにした歌はこの他にもいくつかあるがこれが一番いいと思う。「どうも違うのだ」に、歩み寄りの努力とその結果の諦めが実感を伴って表現されている。

文語

話は変わるが、取想くんは砕けた文体と文語体をしばしばごっちゃにして使う。

きみの見るきみが可愛くないとてもぼくから見たらとても可愛い

言いし一語一句を思い出す一語一句は思い出せぬが

海上を駆けるボートを思い浮くきみが笑顔で食うシブースト

どうしても、文字数の関係で文語っぽい表現にしてごまかしてしまおうという感じに見えてしまう。「としても」 「が言った」「思い浮かべる」が入らなかったから...という風に。

だいたい、「君言いし」は文語としても「君が言いし」の方が自然なのではないだろうか*3

「思い浮く」も厳しい。やはり文語にせよ口語にせよ、一読して違和感のない日本語にしていただきたいものだ。

全体を文語にした歌もあって、それは挑戦として評価できる。

はつ秋に売れ残りたるスイカバー好いてはくれぬ人をぞ思ふ

これは連句的な構成で、「はつ秋に売れ残りたるスイカバー」はこれだけで発句(俳句)的特性を備えている。それに対して、「好いてはくれぬ人をぞ思ふ」と付けたような形だ。若干文語が板についていないような印象もあるが、「スイカバー」という現代的小物と「はつ秋」に象徴される文語的世界の取り合わせが面白い。

修辞

修辞について、結構色々な試行錯誤の跡があるので見ていきたい。

穿ちすぎかもしれないけれども、独学の歌人である取想くんは「短歌は何を歌うものか」ということについて定まった考えを持っていなかったのだと思う。

なんらかの感情を歌い上げるものとしての短歌もあるし、機知的な遊戯として「31字でどれだけ面白いことができるか」というような短歌もある。

どちらかというと後者に属するものだろうが、言葉遊びの類は結構多い。

人生の良薬なのだこの恋はこれほど苦いものであるなら

この恋はまもなく離陸いたしますシートベルトをお締めください

間違いの選択肢切る方法を教えるぼくは恋をきれない

いずれもあまり深い鑑賞はできないけれども、上手いなとは思う。

「人生の良薬」については、音の配列上の特色があるので取り上げたい。

「この恋」「これほど」の頭韻はもちろん、中盤での母音"o"の畳み掛けが重々しい調べを作り、苦味に説得力を加えている。もっとも、これは作者の無意識によって得られた成果だろう。

じんせいのりょうやくなこのこいは ほどにがい ものであるなら

意識的に行われたと思われる音韻上の技法としては次のようなものがある。

楽しげに話すあなたの目は琥珀 お好み焼きの底は焦げ付く

琥珀」「焦げ付く」で韻を踏みつつ、「琥珀」という綺麗なイメージと「お好み焼きの焦げ付き」 という俗なイメージを対比させている。しかし言いたいことが明瞭ではないので(多分「お好み焼きの底が焦げ付くくらい話に夢中で楽しかった」ということだろうが、そう受け取るには若干の親切さが必要だ)あまりいい歌だとは言えない。

「タコわさ」で触れた視線の誘導ということに関しても、彼は 意識的にやっているんじゃないかと思う。そう思うと、以下の歌などは習作のように見えてくる。

振り返る 手を振るきみが目に入る 急性かわいさ中毒で死ぬ

それから、意識的かどうかわからないが、会話体は結構成功している。

「ぼくのことどれだけ知ってるんですか」「きみはわたしのことが好きです」

「どうして誘ってくれたの」「それはきみのことが好きだからだよ」でキス

「君なら許してくれると思ったから」「君だから許してあげるよ」

それから上でも述べた比喩だが、そもそも比喩を使いこなすということ自体が難しいので佳作は少ない。

きみという太陽といた八月の記憶は肌を染め上げたまま

リンスとかコンディショナーをしていない髪の毛のごと絡み合いたい

「きみ」を「太陽」に例えるのはありきたりな上、「きみという太陽」という勿体ぶった言い回しが比喩の品格を下げていると思う。対して、三句以降は実際の太陽による日焼けと「きみ」との記憶のイメージが分割不可能に提示されていて効果的だと思う。

「リンスとかコンディショナーをしていない髪の毛のごと」という比喩はありきたりではないが、その喚起するイメージが「絡み合いたい」という句の内容に特に何も貢献していないように見える。せめて、「リンスとかコンディショナーをしていない髪」はどこから来た映像なのかが示されれば読者としては鑑賞の手がかりとすることができる。

一方でいい比喩ももちろんある。

きみの髪の手ざわりがする堂園昌彦の歌集を読めないでいる

いい歌だ!!

僕は堂園昌彦の歌を知らないが、歌集と「きみの髪の手ざわり」の結びつきはこう述べられると必然的であるように感じられる。きっとこの歌集にとって「きみの髪の手ざわりがする」以上にぴったりの措辞はこの世にないのではないかと思わされる。優れた比喩がおしなべてそうであるように。

その他愛唱

深緑が青色になるほど遠くとおくに見えるうしろ姿だ

ぼくにはこれは俳句に見える。意図した読みは「しんりょく」だろうが、「ふかみどり」と読ませて一息に読み下せば種田山頭火などの自由律俳句の姿をしている。

景としては、深緑に茂った夏の山々が青く見えるほど彼方にあり、おそらく主人公はその山に背を向けて歩いている。あるいはバスや電車に乗っている。振り返ると、先ほどわかれた相手(恋人であろうが、この歌だけを見れば友人でも父親でも誰でも良い)の後ろ姿が見える、と言ったところか。

ただし、僕がこれを良いと思うのは「深緑が青色になるほど」が事実である場合であって、比喩として用いる場合はよさが減ってしまうと思う。

この涙冬が来るまで我慢しようあなたは雪を好きだと言った

「あなたは雪を好きだと言った[から]この涙冬が来るまで我慢しよう」とも取れるし、突き詰めていったらそうなのだろうが、僕は「あなたは雪を好きだと言った」と「この涙冬が来るまで我慢しよう」を別のものとして受け取りたい。

「あなた」は「雪を好きだ」と言い、主人公はふと「涙は冬が来るまで我慢しよう」と思った。その二つの景がわかれていることによって世界は深くなり、切なさも増すと思う。

通過する列車だきみは止めるため投げ込んでみる向日葵の束

短歌としての完成度はあまり高いと思えない。特に「通過する列車だきみは」は拙い。しかし、列車を止めるために向日葵の束を投げ込むというイメージは実に気持ちいい! 比喩であって風景の描写ではないのに、走りゆく列車や燦々たる日差しが眼に浮かぶようだ。そしてまたそのようなイメージをもって「きみ」に対しているというのも爽やかである。いい恋が始まりそうな歌は歌集中これだけではないだろうか?

駅のトイレで嘔吐しているときに電話をしたくなったら恋だ

これは題材がすごくいい。しかし、歌にする時に若干の嘘が入っていないか。作者の思いは、「(恋人が)駅のトイレで嘔吐しているときに電話」してきてくれて嬉しい、また逆に、そこまでの存在として見てくれているのになぜ思いを受け入れてくれないのか、というところにあるのだと思う。それを無造作に「恋だ」と言い切ってしまうのはもったいないような気がする。(「電話をしたくなったなら恋だろ」だとまた違った印象になるのではないか?)

ともかく、文句を言ってしまったが好きな歌である。

頭から羽根を生やしたきみの手のつめたいしろいやわいなきたい

これもいい。情景はあまりわからないが、「つめたいしろいやわい」が間接的に示す切なさを、その心象風景を描いたような歌だ。

切なさは僕にとって白くて冷たいものであるらしく、このような歌には強く共感してしまう。「頭から羽根を生やした」の意味がわからない*4が、白くてモヤのかかったような心象風景に貢献している。

ところで、穂村弘にこんな歌がある。

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

後半部分がよく似ている。僕は取想くんが穂村弘を読んでいるかどうか知らない。知っていて、換骨奪胎ということで上記の歌を作ったとしても、知らずにたまたまかぶったとしても、取想くんの歌の価値が傷つけられるようなことはないが、面白いので比較してみよう。

後半部分で形容詞を列挙することによって、まとまりきらない言葉にならないような感情を描いているところは共通している。

穂村弘の歌ではこれらの形容詞は全て感情にまつわる表現だが、取想くんの歌では「つめたいしろいやわい」は「きみの手」の形容である。

全体の構成を眺めると、穂村弘の歌は、「サバンナの象のうんこ」と感情の列挙の二部構成と言える。 対して取想くんの歌は初めから最後まで同じ場面を描いている。その代わり、「きみの手」という具体的なものから出発してだんだん心象風景、感情の方にシフトしていく感じである。

技巧の上では、穂村弘の方が明快で上手い。「サバンナの象のうんこ」によってイメージが暴力的に拡張され、その中に「だるいせつないこわいさみしい」という混沌とした感情が注ぎ込まれる。さらに、歌の価値ということを考えれば30年前に発表されていること、実験的であることにも触れておかねばならない。

取想くんの歌は、イメージは判然としない。

しかし、言ってしまえば僕は取想くんの歌の方が好きである。穂村弘の歌は技巧が冴えすぎていて、主人公が本当に「だるいせつないこわいさみしい」と思っているとは思えない。主人公の中で、「サバンナの象のうんこ」はかなり冷静に捉えられているし(というのは、二つの「の」によって「うんこ」を限定するという述べ方からわかる)、感情もぐちゃぐちゃなようでいて明確に言葉になっている。

取想くんの歌では、実際にある「きみの手」も「泣きたい」 という感情も未分化のままぐちゃっと提示されていて、そこに人間の感情らしさを感じる。 こうなってしまっては、泣くしかないんだろうなという現実感がある。

取想くんがもし穂村弘を読んでいなかったとしても、穂村弘を読んだ幾人かの歌人の歌を読んでいることだろう。

30年前は技巧と実験の産物であったような形が、現代において素直な実感を持って生まれ替わってくるというのは素晴らしいことだと思う。

*1:取想くんや僕が主宰しているジャズ文芸誌『I Could Write a Book』に彼が寄稿してくれた連作の一つで、『Crazy He Calls Me』というジャズスタンダードの歌詞の本歌取りになっている。青い鳥|i could write a book - ジャズ文芸誌|note

*2:実際には取想くんなのだろうが、本記事では短歌を独立したものとして扱うので、歌の主体も代入可能なものであるとして「ぼく」や主人公などと呼ばせていただく。

*3:ちょっと調べたみたら、主格の格助詞ガやノは主節では基本的に省略される一方、従属節では省略されないことが多い、とある。だから、省略しても間違いではないことになるけども、少なくとも近代以降における文語表現としては「君が言いし」が普通なんじゃないかなあという主観に基づいてこう述べた。

*4:本を読むと、なんとこれはツインテールの比喩らしい! そのことは黙っておいた方がいいと思う。歌の上から、この「羽根」は白かった方が全体にあうし、例えば「きみの心が僕の元にはない」ということを象徴的に表しているなどというふうに読んでおいた方が得だと思う。