blog in 箪笥

やっぱりとりとめもないことを

日記 - 2024/03/31

誘われたので知人と会った。

砂浜に立つと強風に乗って砂が頬を打った。 「今日は富士山は見えないですね」と知人が言った。 サーファーとみられる人が波に揉まれていて、このような季節に好んで海に入る人は専用の暖かい水着があってそれを着ているのか、耐えることに慣れているのかどちらなのか気になった。

実際、遠景は霞んでいてほとんど何も見えなかった。 往路の電車ではその知人に教えてもらった本を読んでいた。他者のわからなさとそれに対処する技法の本であった。

僕たちはともにプログラミングを職業とし、文学を好み、とはいえ文学が大好き! と公言するほどには愛しておらず、小難しいことを考えるのが好きで、しかも同じ本を読んでいた。

僕たちは同じすぎることについて気にしていた。同時に、依然として僕と彼は決定的に分かり合えない存在であった。富士山が見えないので、僕はそういう連想をした。

つまり、差異を横に置いたまま話すことのできる領域が広すぎるのだと思った。たとえばここと富士山を隔てる湾くらいに広い。そして二人とも差異を横に置いておくのが十分に上手だった。

僕は他の、数少ない知人についても考えた。結局、僕はわかる範囲で話すのが得意でわからない範囲に踏み込むのが苦手なのだと思った。わからない範囲に踏み込んだ方がいいのかどうかもわからなかった。好きかどうかで言えば、人間の理解できない部分と向き合うのは嫌いだ。

しかし、同質性が担保された領域の探索ではなく、未知のものへの対処こそが人生を進めるということである気もした。僕と知人の間で話題は尽きなかったが、そこで生起する物事は静的で、たとえば幾何学模様を規則に従って拡大していくような、分散和音をなぞっていくような振る舞いをした。人生の進行とはもっと順次的なものである気がした。もっとも、それは結婚と育児が中心である場合の人生に限定した話かもしれなかった。ずっと同じ時間を過ごす家族にとって、必然的に立ち現れてくる差異に対処していくということがすなわち生きていくという行為で、それは間違いなく尊いことだから。でもそのような人生を僕は少なくとも今選んではおらず、それがいいのか悪いのかについてはわからなかった。

「普段も風が強いのですか?」と僕は尋ね、「こんなには強くないけど、落ち着こうとすると気になりますね」と彼は答えた。

コミュニケーションが成立していた。その向こうで霞んで見えない彼の他者性について。見えたとしても誰も幸福にならない可能性もあることについて。

彼はたくさん本をくれたので、その分僕は彼と同じ度合いを増した。

帰りは4kmほど歩いた。一人で歩くのは楽しい。