blog in 箪笥

やっぱりとりとめもないことを

俳句の「切れ」って結局何か? と考えると思ったよりややこしい気がする

以下のエントリを見かけて、触発されたので「切れ」についてちょっと書いてみようと思う。 note.com

このエントリは高校の国語の教科書での俳句の説明の誤謬を指摘するもので、至極真っ当なことが書いてある。

僕が俳句に触れたのは大学に入ってからだったので、高校の教科書の記述がこんなにひどかったとは気づかなかった。

しかし、高校の教科書の「切れ」理解よりも僕の興味を引くのは、こばるとさんをはじめとする俳句関係者の「切れ」理解だ。

ちょっと上記ブログから引用してみる。

僕は「句末の切れ」を「切れ」に含めたうえで、「切れ」に「意味上の切れ」「文法上の切れ」の二面性を認める解釈を採用している。

「句末の切れ」ってなんだろうか?

句末の切れというのは、句が詠嘆と共に強く締めくくられていることだという。

いくたびも雪の深さを尋ねけり  子規

「けり」で句が締め括られていて、ここに「切れ」があるでしょう、ということだ。

この概念自体は俳句の世界では割と一般的だと思うが、僕はなんだか納得がいかない。

ピストルがプールの硬き面にひびき 誓子

などは「句末の切れ」がないとされる。確かに終止形、切れ字などは用いられていない。 とはいえ、そこで俳句は終わっているのだから、「切れ」がないと言うことがいったい何を意味しているのかがすっきりしないのだ。

さらに「意味上の切れ」という概念を肯定する場合、句末は意味的には必ず切れているような気がする。

ここで僕がしたいことはもちろん論難ではなく、どうしてこういう「軋み」が生じてしまったのか(生じているとしたら)をちょっと考えてみることだ。

この軋みは、例えば「切れ字」として「や」「かな」「けり」が紹介された時から始まっている気がする。「や」は確かに句を「切る」けれど、「かな」と「けり」は句末にあることが多い。何を「切る」字なのか?

これを説明しようとするとやはり「句末の切れ」というアイデアに行き着いてしまう。

どうしたものか。

僕の意見では、この軋みは「切れ字」と「切れ」に関係がある、という誤解から始まっている。 こばるとさんが「切れ字=切れではない」とおっしゃっているところを、僕はさらに推し進めて「切れ字と切れは関係がない」とまで言いたい。

確認しておくと、「切れ」は「切れ字」よりずっと若い概念である。きっと適切な文献があるだろうと思うのだが、ぱっと示すことができないので傍証を挙げることにする。

例えば、正岡子規の『俳諧大要』には「切れ」という言葉は一回も出てこないし、句の中に切れを作ることを重要視するような記述もない。もっとも、切れ字についてもあまり触れられていない。

一、初めより切字、四季の題目、仮名遣等を質問する人あり。万事を知るは善けれど知りたりとて俳句を能くし得べきにあらず。文法知らぬ人が上手な歌を作りて人を驚かす事は世に例多し。俳句は殊に言語、文法、切字、仮名遣など一切なき者と心得て可なり。しかし知りたき人は漸次に知り置くべし。

虚子の『俳句の作りよう』を見ても「切れ」という言葉はない。こちらは切れ字については比較的重要視されている。

とにかく十七字を並べてみるに限ります。けれども十七字を並べるというだけでは、漠然として拠り所がないかもしれません。それで私はとりあえずこうおすすめします。 「や」「かな」「けり」のうち一つを使ってごらんなさい、そうして左に一例として列記する四季のもののうち、どれか一つを詠んでごらんなさい。

「切れ」ということを言い出したのが誰かという問題からは逃げることとして、例えば長谷川櫂『俳句の誕生』などでは「切れ」が俳句にとっていかに重要であるかについて語られている。

さて、それでは「切れ字」と「切れ」についてそれぞれどういう概念かを考えていきたい。

「切れ字」を考える上で重要と思われるのは、その概念が生まれた背景が「俳句」ではなく「俳諧」であった、つまり連句だったということだ。

連句というのは五七五からなる「発句」(=俳句の前身)から始まって七七の「脇句」、五七五の「第三」…というふうに複数人が句を連ねていく文芸・知的遊戯である*1

「発句は切れ字を含むべきだ」というのも「発句は当座の季題を含むべきだ」というのもこの背景を前提に「発句は連句全体を代表するような立派な姿でなければならない」という規定が出発点になっている。

そう考えれば、「切れ字」の役割というのは何をおいても発句と脇句を「切り」、発句に独立した詩性を与えることだ、と考えるのが自然だと思う。 言い換えれば、発句が一句として「立つ」ための「切れ字」だということだ。

ここにきて、現代の俳句では何を切っているのか判然としない「句末の切れ字」こそが「切れ字」のもっとも自然なあり方だと納得することができる。

一方、「や」はむしろ特殊な切れ字として考えることになる。

例えば「古池や蛙飛び込む水の音」において、「や」は上五とそれ以降を分断している。 しかし僕はこの分断の効果を、分断そのものではなく「水の音」への着地感に貢献するものとして見たい。

読者は「古池や」で一旦音調的・イメージ的に浮遊状態になる。それによって、続く「蛙飛び込む水の音」で一句が「着地した」という感覚が強められている。

これが「古池に蛙飛び込む水の音」だったとすれば、一句としての独立性が弱くなるのは直感的に明らかだろうと思う。

まとめると、「切れ字」には「かな」「けり」のように句末におかれて詠嘆するものと、「や」のように句を分断するものがあるが、どちらも一句の独立性や格調に寄与するためのものである。

次に、「切れ」について考えていきたい。 「古池」の句を例に、無理に句点をつけて書くと次のようになる。

古池や。蛙飛び込む水の音。

一句の中に二つのフレーズ(≒文。冒頭あるいは句点から句点まで)が存在している。 まさにこのことをもっともナイーブには「切れ」ていると呼ぶわけだが、ここでは一旦それを避けたい。「切れ」とは何かという話をする際に「切れ」という言葉をつかうのは更なる混乱の元となるからだ。(「切れ」と呼びたくない、という主張ではなくあくまで便宜的な話だ。)

そこで一旦、上のような句を「二フレーズ構成の句」と呼び、上五と中七の間の句点に相当する箇所を「フレーズの区切れ」とでも呼ぶことにする。

「フレーズの区切れ」と「切れ字」の関係は次のようになる。

  • 「切れ字」のうち、句の途中に出現する「や」型のものはフレーズの区切れを作る。
  • 同様に「フレーズの区切れ」は「や」型の切れ字を含む。
  • 「切れ字」は句が「一句として立つ」という目的を中心とした概念であり、「フレーズの区切れ」は単なる現象・事実・観察結果であるから、同じものを指す場合があるとしても見方は異なる。

僕としては、以上で議論を切り上げて「フレーズの区切れ」こそが「切れ」だと締めくくりたい気分だ。

しかしもう少し考えておかないといけないように思えることがある。 それは「切れ」が「配合」「取り合わせ」「二物衝撃」などと呼ばれる作句法とも一緒に語られることについてだ。

「配合」は句の中に二つの物事を登場させ、その関係の妙によって詩の効果を期待するものだ。

この「配合」(取り合わせ)は芭蕉の頃には存在した概念であるが、近代以降にはさらに重要なものとなった。二つのものを組み合わせるその組み合わせ方によって、17音という短い句型の中でも複雑なイメージを提示することができ、その中に近現代の俳句が発展する余地があったからだ。

「配合」と「切れ」に関する見解の変化を見るために、虚子の『俳句の作りよう』(初出1927年)と藤田湘子の『20週俳句入門』(1988)を比べてみたい。

『俳句の作りよう』では「題を箱でふせてその箱の上に上って天地乾坤を睨めまわすということ」という章にそれに相当する作句法が示されている。

年玉のいい句を作るのには、あまり年玉に拘泥し過ぎていると動きがとれなくなってしまってつくりにくいから、それよりもいい配合物を求めるがいい、そうしてその配合物と年玉とを結びつけて句を作るがいい、とこういうのであります。

と述べた後、例として以下のような句が「雪」と「年玉」の配合例として挙げられる。(抜粋、a〜dの印づけ筆者)

年玉や雪の小家の床の上 (a)

雪の戸に喜びみちぬお年玉 (b)

雪の戸に年玉を持ちはひりけり (c)

年玉をくれて雪搔いて帰りけり (d)

(a)と(b)は二フレーズ構成の句であり、各フレーズと配合された二物(雪・年玉)が対応している。一方、(c)(d)は一フレーズの中に二つの配合物が登場する。

ここでは「配合」ということは句の中に二つのモチーフが登場する、という程度の意味で用いられている。

一方、『20週俳句入門』ではどうかというと、「配合」と「一物」の二種類の作句方法があると紹介した上で

名月や男がつくる手打そば   森澄雄

という句を題材に以下のように説明している。

上五の「名月や」と、中七・下五の「男がつくる手打そば」とは内容が異なっている。中 七以下では「名月」のことは一切言っていない。せんじつめて言うと「名月」と「手打そば」の配合ということになる。

ここでは二物の「配合」に関して、一種の断絶がなければならないとする意識が見てとれる*2。 それは自然に、二つの配合物がそれぞれ別々のイメージ(俳句の人っぽくいうなら「景」)に含まれることを要求する。

つまり、上の例では「名月」を含む漠然としたイメージと、「手打ちそば」を含む具体的な イメージをぶつける、あるいは重ねることが「配合」だ、というふうに読める。

イメージが二つあるということは、句の中に「イメージの転換点」があることを意味する。 だから、「二フレーズからなる句」かつ「配合」の句が作られる場合、「フレーズの区切れ」と「イメージの転換点」は一致するのが自然だ。

湘子はこの本の中でいくつもの「俳句の型」を示しながら「配合」の句の作り方を指南しているが、それらの「型」に共通なのは句の中で二つの異なるイメージを提示することと、それらのイメージを二フレーズ構成の句の各フレーズに対応づけていることだ。

型・その1|季語や|     | 名詞|

型・その3|   |     | かな|(中七末尾に区切れ)

型・その3では例句として秋桜子の「金色の佛ぞおはす蕨かな」が挙げられている。確かに「仏ぞおはす。」という具合にフレーズの区切れがあり、なおかつそこがイメージの転換点にもなっている。

『20週俳句入門』自体では「切れる」という言葉は「フレーズの区切れ」に近い意味で使われていて、「イメージの転換点」を指すためには使われていない。 しかし、これらが一致する場合が型として示され、「イメージの転換点」にあたる術語は与えられないため、この本やそれに近い内容に触れた者が「フレーズの切れ」=「イメージの転換点」=「切れ」と(不正確に)考えるのは時間の問題だという気がする。

「配合」と「切れ」の関係をまとめたい。

  • 現代において、「配合」というのは二つの異なったイメージをぶつけたり重ねたりすることで句に奥行きを与える作句法である。
  • よって、「配合」の句には「イメージの転換点」が存在する。
  • 「イメージの転換点」と「フレーズの区切れ」の場所は一致することが多い。

「切れ字」⇄「フレーズの区切れ」⇄「イメージの転換点」というような図式が、僕の思い描いているものに近い。

だから、「切れ字」と「イメージの転換」を結びつけるような議論にはあんまり納得できない*3

あくまで「切れ字」は音調の方面から句の格調・着地感を高めるものだと思う。もちろん、句の意味・イメージということはそれの入れ物である言葉選びや音調と切り離すことができないものではある。そういう意味で密接な関係があるといえばあるのだけれど、それはもはや句の中の一音一音に言える話になってしまう。一音一音が切れ字であり、イメージの転換でもある。それは精神論としては魅力的だけれどもあまりスマートとはいえないな、というのが率直な思いだ。

さて、「フレーズの区切れ」と「イメージの転換点」という新しい用語を引っ張り出したけれど、「切れ」とは何かという結論からは逃げたまま、宙ぶらりんで終わることになってしまいそうだ。

強いていうなら、

「切れ字」→「句末の切れ」

「フレーズの区切れ」→「文法上の切れ」

「イメージの転換点」→「意味上の切れ」

とでも呼ぶことにしたら、結局は冒頭に取り上げたこばるとさんのブログの主張を繰り返すようなことになると思う。

僕が言いたかったことは、「切れ」という言葉は多面性を持つどころではなく、いくつかの異なった概念をまとめて読んでいる言葉だ、ということだ。

「切れ」以上にキャッチーな言葉もないだろうから、使い続けることに異存はないが、性質の違う複数のものを同じ名前で呼んでいるという感覚はあったほうが誤解が起こりにくくていいのではないだろうか。

言いたいことは大体以上なので、個々の句に関する各論的な応用を考えて終わろうと思う。

オムレツが上手に焼けて落葉かな 草間時彦

フレーズの句切れは、ない。イメージの転換点は中七の終わりにある。こういう場合に、中七の終わりに「切れ」がある、と言ってしまいたくなるのが我々であるけれど。

「かな」は切れ字だが、この句ではさりげなく使われているので格調云々というよりは語調を整えるくらいの役割と思う。加えて、たった三文字の「落葉」という季語の重さを(音調の方面から)補強する役割。

「切れ字」が発句と脇句を「切る」時代は(俳句界においては*4)終わっているので、「切れ字」の効果は句ごとに考えないと正確なことは言えないのかもしれない。

辛崎の松は花より朧にて 芭蕉

この句には「切れ字」も「フレーズの区切れ」もない。 それで、「第三句」っぽいと物議を醸したらしい*5。 それはすなわち、連俳が基準である世界において「切れ字」の有無は「発句らしさ」を決める重要なファクターだということだ。

一方で、この「発句」をものした芭蕉その人や現代の我々にとっては「切れ字」の有無はそんなに大きな問題ではないのだと思う。

同じように、ややこだわることになってしまうが、「句末の切れ」もその有無は大した問題ではなく、「松は花より朧にて」なのか「朧なり」なのか「朧かな」なのか、それぞれの効果がどういったものなのかということだけが問題で、句末の語形で句を分類することがあまり意味あることとは思えない。

ピストルがプールの硬き面にひびき  誓子

また「切れ字」「フレーズの区切れ」「イメージの転換点」なしの句だ。 文構成を見ると散文的だが、格調が低いとは思われない。「切れ字」のような古典的な韻律を拒否したことによって、(そうでなければ詩の世界に昇華される)現実を現実のまま厳しく描き止めた、そのこと自体による格調がある。

算術の少年しのび泣けり夏  三鬼

「フレーズの区切れ」かつ「イメージの転換点」がかなり後ろにある。

これは「切れ」の効果をいうべき句だと思う。「や」型の切れ字と同じように、「しのび泣けり」という中断によって句にアクセントが生じ、「夏」に着地している。 新しいところは、後ろすぎる区切れ位置によって着地し切れない独特の(キャッチーな)余韻が生まれているところだ。

コンビニのおでんが好きで星きれい  神野紗希

「フレーズの区切れ」はないが、中七終わりに「意味の転換点」がある。 このように、従来ならフレーズの区切れが作られるべきところを散文的につづける句法は現代ではしばしば見られる。

誓子の「ピストルが」の句をさらに推し進めた形で、韻律上はだらだらとした形をとることで現実意識に下降しようという動きに見える。

古典的な型を学び、格調高く完成度の高い句を作ろうとすると、できた句が自分の生活感覚と乖離してしまう、という違和感は現代の我々が直面する共通の問題の一つかもしれない。

俳句は、「切れ」は、どうなっていくだろうか。

*1:冒頭で触れたこばるとさんのブログによれば、教科書では俳句の5/7/5がそれぞれ初句・二句・三句と呼ばれているらしい。和歌の呼び方からの類推なのだと思うが、俳諧において発句(第一句)、脇句(第二句)…という用語がしっかりあって別のものを指している以上、単純な誤りである可能性が極めて高いと思う。

*2:補足しておくと、「配合」の距離感を絶妙にすると新しい感じがする、というようなことは子規とか虚子とか碧梧桐とかが書いているので、湘子の頃に出現したアイデアではない。文献を知らないので憶測だが、「ホトトギス」を中心とする大正・昭和俳壇で洗練されていったのだろうと思う。それをさらに整理して「型」として提示したという点で湘子の指導者的新しさはあるのだと思う。

*3:『20週俳句入門』では切れ字の効果を「詠嘆」「省略」「格調」としているので、湘子が「切れ字」と「配合」とは分けて考えていたことは確かだと思うし、それが正しい理解だと思う。

*4:連句をやっている人は現代にもいるし、そこでは終わっていないかもしれない。あるいは「切れ字」などという古臭いものは死んでいるのかな。知らないのでわからないですが誰かに教えて欲しいですね。

*5:「にて」で終わるのは第三句の基本型の一つだ。