blog in 箪笥

やっぱりとりとめもないことを

トイカメラをもらった

トイカメラっていう、ペンダントくらいのサイズなんだけど写真が撮れるというおもちゃをもらった。できるのはシャッターを押すことだけ。

https://www.kenko-tokina.co.jp/imaging/camera/assets_c/2016/07/4961607437438-thumb-180x121-23527.jpg トイカメラ DSC Pieni | ケンコー・トキナー

どうも写真を趣味にしている人々の間では「味を出す」ために使われるっぽい。僕は別に写真に造詣は深くないというかむしろ下手な部類で、下手だから、操作の少ないカメラが手に入って嬉しい。

表現手段として写真を撮っている人を除くと大概の人は日常の、あるいは非日常の記録として写真を使うのだろう。つまり、過ごした時間の断片を保存しておくのだ。でも、現実世界あるいは体験ということに比べて、写真におさめることのできる情報はあまりにも少ない。だから、写真をとる人は構図だとか設定だとかを上手い具合にして、現実世界の大事な部分を抽出しようと努める。

それって、例えば原本のコピーを取るような簡単なことではないですよね。木から仏像を掘り出すような途方もない行為に思えるんだけど。一つの現実の場面には勘所がいくつかあってそれを上手に掬い取ると、つまり他の部分を大量投棄すると、良い写真になるんじゃないかな。別に写真に限った話ではないけど。

僕はカメラ(というかスマホ)を構えても、どこを捨ててどこを拾ったらいいかが全然ピンとこない。多分スマホという媒体にも問題があって、画質も結構いいし操作が簡単だから、世界が360度ディスプレイみたいに見えてしまう。そのディスプレイの一部をスクリーンショットするような。だから、「写真」という完成物を独立にうまくイメージできないのだな。

別に写真を上手に撮ってもどうするということはないし、xxへ行った、ooがあったというようなことは記録できるので、それでもいいのだけれど。 僕にだって、取る対象物が決まっているときにそれを画面に含めるくらいのことはできるから。でも、そういう取捨選択を迫られているという感覚はあって、写真を撮るたびに自分がそれをうまくやれないことに対する、つまり必然的な写真が撮れていないことに対する不満が生じてしまう。 まあ、それも日常生活のほとんど全てのことに言えるので写真だけをあげつらうこともないのだけど。

トイカメラトイカメラには、素晴らしいことにファインダーがない。(あるけど何も見えない、つまり飾り) だから、写真を撮るときには当てずっぽうにカメラを構えてシャッターを押すしかない。責任を感じなくていいので気が楽。 自由度が少ないから、このくらいなら自分にも選択できるかな、と思うし、失敗したらカメラのせいにできる。イェイ。

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建物全体を撮ろうとしたのに全然収まっていなかった

あと、なんか雲がかっこよく映る。それもイェイ。

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郵便局を撮った