blog in 箪笥

やっぱりとりとめもないことを

jpopの「季語」 〜キスマイ『王国の蝶』における季節の揺らぎ〜

雑話です。

ちょっと前のことですが、アイドルユニットkis-my-ft2の千賀さんと横尾さん*1が楽曲『王国の蝶』をリリースされました。

楽曲の公式サイト

歌詞

千賀さんと横尾さんは「プレバト!」で俳句の「名人」であらせられまして、この楽曲の歌詞はプレバトの縁で俳句講師夏井いつき先生がお書きになっています。

より正確に言えば、夏井先生が既に発表されている俳句のうちいくつかを構成して歌詞にしてあるような感じです。裏話が夏井先生のyoutubeチャンネルで聴けます。

youtu.be

さて、素性もなかなか面白いこの曲なのですが、さらに興味深いのが歌詞における「蝶」の解釈についてです。

僕はこの「蝶」が、モンシロチョウやモンキチョウといった小さくてふわふわ飛ぶような可愛らしい蝶か、あるいは揚羽蝶オオムラサキといった大ぶりで色鮮やかな蝶かということで2通りの解釈がされうるんじゃないかと考えています。

こんなことをわざわざ言うのは、この歌詞が歌詞ではなく「俳句」であったときには解釈の揺れは起きない、起きようがないからです。

「蝶」は春の季語です。この季語が指し示すのは前者の蝶、春の蝶のみです。ですから、夏井先生の「俳句」であったときにはこの蝶はモンシロチョウだかモンキチョウだかそんな感じの小さい可愛らしい蝶だったわけです。後者の蝶、色鮮やかな大ぶりの蝶は「夏の蝶」などといって区別されます*2

蝶や今もう戻れない高さまで

パタパタっとせわしなく懸命に飛んでいるモンシロチョウなどが想起されます。

しかしですね、俳句に曲がつき、アイドルが歌ってjpopとなった今、この蝶は本当に迷いなく「春の蝶」と言えるでしょうか...?

曲を聴いてみると、「大人な」「ちょっと翳りのある」「情熱を持った」イメージであると僕は感じました。気分としてはこれはむしろ「夏っぽい」ものだと思いますし、モンシロチョウというよりは揚羽蝶にご登場いただきたいような感じがします。

ポルノグラフィティに『アゲハ蝶』という有名な曲がありますが、この曲はズバリ「アゲハ蝶」=夏の蝶を主題にしています。実際「夏の夜の真ん中月の下」と歌詞にも季節が明示されています。

そして、僕は『王国の蝶』に『アゲハ蝶』と似た曲想を見るのですがいかがでしょう。


季語は日本の四季の中で営まれる日常の集積です。幾多の俳人が蝶を見、そこに春を感じて句に読み込む中で蝶と春のイメージが分かち難く結ばれていきます。

jpopにおいても、もちろん「季語」などという形式ばったものはありませんが、多くの歌が歌われる中で免れ難く定着する季節のイメージというのは確実に存在します。

揚羽蝶はjpopにおける「夏の季語」と言えます。僕は他にもスガシカオの『19才』なんかを思い出します。これも、翳りがあって都会的な孤独を歌っているところに『アゲハ蝶』との共通点を感じます。

都会的な、と言えば『王国の蝶』にも連想される部分があって、夏井先生この動画に曰く

蝶や今もう戻れない高さまで

という句は、蝶が(もちろんこの蝶はオリジナルの蝶ですから春の蝶です)一頭上へ上へと舞い上がって、「戻れないな」 と思うくらいの高さに到達したとき、その満足感と少しの虚無感を描いたそうです。

この虚無感というのはちょっと都会的な感覚だと思います。


ところで、楽曲裏話でこんな話がされていました。

千賀さん、横尾さんと夏井先生のコラボが決まったときに、夏井先生の方からいくつか俳句集の候補を出した。その中から選んでもらったところ、千賀さんがこの「蝶」をモチーフとする連作を気に入り、実現に至った。夏井先生としては、これらの句は難解だと思っていたのでちょっと驚いた。

このエピソードに僕は次のような憶測をしてしまいます。

千賀さんは俳句の人である前にjpopの人なので、「蝶」に対して揚羽蝶に代表される夏の蝶のイメージがあるのではないかということです。もちろん、名人ですから知識として「蝶」が春季のものであることはご存知でしょうが、意識下のイメージとしてです。

jpopが一概に揚羽蝶ばかりを取り上げているとは言いませんが、揚羽蝶をモチーフにした名曲は多いように思います。それに、揚羽蝶にはさっき述べたような夏-大人-翳り-都会的といった連想が付着しているのに対し、jpopにおける春の蝶にはそこまで豊かな連想はないのではないでしょうか。

こう仮定してみると、千賀さんが「蝶や今」の句を気に入られた理由もちょっと見えてくるような気がします。

一つは、芸能人という存在がかなり極端に都会的であることや、華々しいステージを目指して血の滲むような努力をされてきたというような千賀さんのアイドルとしてのバックグラウンドがjpopで歌われる「夏の蝶」のイメージと親和性が高いこと。それから、「もう戻れない高さまで」という内容が、そのような都会的なイメージのもとで見ると比較的容易に理解されることです。

夏井先生がご自身でおっしゃった「難解さ」の一つは、俳句の世界の「春の蝶」という「春ののどかさ」のイメージが強いモチーフをそうではない様々なイメージと結びつけて描いておられるところにあると思います。*3

一方その句を、jpopの「夏の蝶」のイメージで眺めるとほとんど難解さはなくて、スッと受け取られたということではないかと思うのです。


色々憶測だけで述べたてましたが、全部僕の妄想であって何一つ真実はないかもしれません。

ただ僕は、この曲を聴く多くのキスマイファンがどんな「蝶」を思い描くかにとても興味を持ちますし、その蝶が揚羽蝶だったとしても「間違いだ」とは言えない、ということ自体を面白く感じるのです。

*1:僕の中で彼らのイメージは「俳句が作れる人」なので、なんだか「歌って踊るんだ!」と新鮮な感じもいたしますんですが

*2:などと言いつつ山本健吉『基本季語五〇〇』ではあらゆる蝶が春の季にまとめられているのでもしかしたら揺れがあるのかもしれません。

*3:他にも客観的な句ではなくて、蝶の主観に成り代わったような主体のあり方など色々な「難解さ」はあると思うのですが

西村取想くんへ、『四百センチ毎秒の恋』の感想を言います。

西村取想くん以外の方へ

この記事は、僕の友人かつ歌人の西村取想くん(@N_torso)が出版した歌集もどき『四百センチ毎秒の恋』の感想兼悪口です。

booth.pm

この本は、彼が想い人Kさんに贈った100首あまりの短歌とKさん本人の感想を中心としていて、主要部分は彼のブログで読めます。 con2469.hatenablog.com

リンクを踏むのは面倒だという方のために、二人のダイアログの一部を紹介します。

この恋はまもなく離陸いたしますシートベルトをお締めください

K 着陸した?

これが延々続くと思って頂ければ大きな誤解はないはずです。書籍版ではこれに取想くん自身による回想とKさんによる回想、京大短歌会の金山さんによる短歌の解説と表紙が加わっています。

それから、西村くんはこの本の出版と前後してKさんとお付き合いを始めたそうです、おめでたいですね。

以上で、僕と取想くんの間にある前提知識は全部です。以下は取想くんへの手紙の形式をとりますが、もしわからないところがあったらすみません。

そもそも、この感想を読んで面白い人がいるのかもわからないのですが、万が一興味を持っていただけたら嬉しいです。

ぼくの本棚の『四百センチメートル毎秒の恋』

取想くんへ

あいさつ

お久しぶりです。本の出版、それから恋愛成就おめでとう。

とは言っても、本が出たのは去年の11月頃だったから「何をいまさら」という感じかもしれません。ブログが公開されたときから僕は「取想くんの悪口を書く」と言い続けていましたが、そろそろお忘れの頃だと思います。しかし、今になって書く気になったものですから、迷惑かもしれませんがお受け取りください。

第一印象

まず最初には、恋人とのやり取りをそのまま公開する露出狂的趣味が気に入りませんでした。

次に思ったことは、「どう言う気持ちで読めばいいの?」と言うことです。 これについて後で詳しく書きます。

最後には、短歌そのものへの不服もありました。しかしこれは大きな批判点ではありません。取想くんはこの時点で作歌歴も長くありませんでしたし、そのような作者が100首以上の短歌を作ったということ自体に賞賛の念を抱きます。

短歌自体の感想は記事を改めて書きました。こちらも読んでみてもらえると幸甚です。

tancematrix.hatenablog.com

『四百センチ毎秒の恋』は文学か

中身を考えると『四百センチ毎秒の恋』はなかなか面白いはずのものです。恋人に贈った短歌、感想、恋のエピソードですから、みんながこぞって聞きたがる類の話です。

しかし、やっぱり本として手元にあると、どういう気持ちで読めばいいのかわからなくなってしまいます。

僕の考えでは、この本は僕を読者としていないのだと思います。

短歌にせよノンフィクション小説にせよ、あるいは対談にせよ、「作品」は読者を想定して作られています。それは、「作品」が自立して読者に対することができるということでもあります。読者の立ち位置を提供できるということです。

僕は美術には疎いですが、デュシャンの便器が作品たり得るのは、そこに鑑賞者を立たせることによってではないでしょうか。

そう考えたときに、『四百センチ毎秒の恋』は作品たり得ているでしょうか。 僕は否と思います。

取想くんの短歌は文学作品です。取想くんがKさんに贈った短歌は読者としてのKさんに対すると同時に、読者としての僕にも対しています。僕はそれを鑑賞することができます。

しかし、Kさんの返答は、僕には鑑賞できません。

返答は、もともと取想くんだけに向けられたものです。発話者であるKさんも、「地の語り手」である取想くんも読者の立ち位置を準備してくれてはいません。

ちょっと変な仮定をしてみます。

『四百センチ毎秒の恋』が事実を元にした取想くんの私小説だったならば、僕はこれを激賞したかもしれません。 短歌、返答、回想録から恋を綴るというのはなかなか新しくも効果的な手法です。ブラボー。

その場合、Kさんの返答は取想くんによって再構成されていることになります。返答が便器で、取想くんがデュシャンです。(すみませんね...)

そうだとすれば、僕は安心して返答に対することができます。 なぜなら、その返答は自立した作品であり、作者と分離可能であるからです。

僕が返答にどんな感想を抱いても、一応それは取想くんともKさんとも切り離して考えることができます。(少なくとも僕はね)

一方実際の『四百センチ毎秒の恋』はそうではなく、Kさんの返答はKさんのものとしてKさんと分かちがたく提示されています。

いくら匿名の人物だからと言って、知らない人に感想を抱くのは僕はちょっと嫌です。

そんなわけで、僕の考えでは、(僕にとって)この本は作品とは言えないということになります。

この本を楽しめるのは、例えば取想くん・Kさんご両人のお知り合いであって、二人のやりとりを適切な立ち位置で眺めることができる人くらいではないんでしょうか。(そういう人からするとずいぶん微笑ましいであろうということは想像がつきます)

ただ実際はずいぶん人気の記事になったみたいですね。

もしかしたら、僕が取想くんだけを知っているためにKさんの実在性が気持ち悪く感じられるのであって、二人に全く関係のない人であれば、本全体をフィクション的な作品として受け止めることができるんでしょうか。

あるいは、以下放談ですが、知らない実在の人物の言動を興味を持って眺めることができる覗き趣味的な人々が多いんでしょうか。

そもそも、いちいちの返答に対する自分の立ち位置に迷う僕が神経質すぎるのかもしれません。

謝罪

以上、僕は批判のつもりで書いてきましたが、きっと取想くんは痛くもかゆくもないでしょうね。

「いやまあ、文学作品と思って書いたんじゃないんで......」

という声が聞こえてきそうです。 実際、本書「蛇足・二」には以下のように書いていますね。

感想を、しかも一首ずつ言ってもらえたぼくは喜びの頂点にいた。自分ひとりで抱えるには強烈過ぎる喜びだった。だからぼくはKさんの感想をまとめてブログに載せた。

作品として生まれていないものを「作品として成り立っていない」と批判するのもナンセンスでした。すみません。

ただ、ぼくは400円払って本を購入した*1ので、文句を言う権利がないでもないかなと思います。

我慢して読んでくださってありがとうございました。

物体として

そもそも本を出すと言うこと自体がすごく羨ましいです。いいですね、製本された本。物体としては完全に作品であると言わせてください。

それから、やっぱり短歌は縦書きで読む方が良さが伝わると思います。ページをめくる感触もいいです。

ブログ上の短歌より、本の中の短歌の方が数倍いいと思います。

若干の文句を言うと、左ページの端に短歌が来てページが切れて、返答が次のページになってしまっている箇所が結構ありますね? 見栄えの面から、なんとか同じページに収めていただきたかった!

短歌だけを読んで、ページをめくると返答があるというのは趣向としてはいいと思いますが、不揃いなのは気になります。

それ以外は完璧な出来栄えです。

祝辞

やっぱり何より、恋愛成就おめでとうございます。

ブログが公開されたときには「なんだこの気持ち悪い記事は!」と思いました。

短歌を贈るというような熱烈な恋情を一方で示しつつ、他方でその人とのプライバシーを無造作に扱うというのは、取想くんの恋愛が独りよがりであることを示しているように思われました。さらには取想くんは恋愛を消費しているのではないか、すなわち恋愛をしている状態そのものの享受を目的として、短歌だとかブログだとかの創作の燃料にしているのではないかと疑いすらしました。

取想くんの恋愛成就によってこの不当な勘ぐりが間違いであったことがわかり、それがなかなか嬉しいです。

正直、ぼくは取想くんをあんまり誠実な人だと思っていなかったので(失礼!!)自分の不明を恥じるとともに、誠実で粘り強い友人の前途を祝したいと思います。

*1:ぼくの恋人にも売りつけましたね??

歌評『四百センチ毎秒の恋』

はじめに

歌人の西村取想くん(@N_torso)が去年(2019年)の11月に歌集もどき『四百センチ毎秒の恋』を出版しました。👏

booth.pm

この本は、彼が想い人Kさんに贈った154首の短歌とKさん本人の感想を中心としていて、主要部分は彼のブログで読めます。

con2469.hatenablog.com

この本自体について思うところは別の記事で書きました。

tancematrix.hatenablog.com

本記事では、彼の短歌を前後の文脈を持たない独立した作品として鑑賞していこうと思います! いざ。

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類別

「あなたが好きだ」「恋が報われなくてつらい」という趣旨の歌は定番ながら非常に多い。

冒頭の方からざっと「恋が報われなくてつらい」を抜いてみる。

このからだピーマンのごと切り刻むさすればきみは好いてくれるか

きみの住むアパルトマンを見上げてる冴えない雨に打たれながらも

箸を持つきみが見つめるタコわさになりたいぼくはわさびが苦手

石ころをきみに見立てて蹴ってみる溝ではなくて恋に落ちてよ

「アパルトマン」以外は身近な小道具に仮託して恋情を歌うものだ。

取想くんは飄々とした(?)人柄だからか、恋の歌ながら深刻になりすぎない歌が結構多くて、特色の一つだと思う。

「どれだけつらい思いをしたら好いてくれるのか」そんな主客転倒かつ痛烈な思いも、ピーマンも同じ俎上だ。

Crazy He Calls Me

望むならどんなことでもしてみせる 狂ってあげる 愛してくれる? 

西村取想『青い鳥*1』より

これも取想くんの歌だが、一種の変奏と見ることができるだろう。「狂ってあげる」 と見得を切るスタンダード曲の主人公に対して、「ピーマンのごと」 としか言えない等身大の取想くん。

「狂ってあげる 愛してくれる?」なんて言われたら「ウッ」となってしまうが、「この体をピーマンみたいに切り刻むから...」なら「いや、切り刻んでいらんし」と返すことができる。憎めない人格がにじみ出ていて、僕は好感を持つ。

ただし、歌としての完成度は微妙だと思う。好意的に解釈すればファミレスかどこかでピーマンが切り刻まれている料理を二人で食べながら(あるいは切り刻みながら?)の場面とわかるが、そう仮定したところでこの歌から情景を思い浮かべるのは無理だ。また、「さすればきみは好いてくれるか」という漠然とした句だけで「自分を痛めつけたら好いてもらえるだろうか」という卑屈な思いに共感を誘うのは難しいのではないか。

箸を持つきみが見つめるタコわさになりたいぼくはわさびが苦手

これも似た趣向で、小物を提示しつつ思いが届かない切なさをほのめかしている。僕は初め、これも「ピーマン」の歌と似たり寄ったりであまりいい歌ではないと考えていたのだが、最近になって随分技巧が冴えていることに気づいた。

まず、「タコわさ」によって「ぼく」と「きみ」が居酒屋にいることがわかる。飲んでいるのは日本酒だか焼酎だか、とにかくうちくだけた雰囲気の席であることもわかる。「ピーマン」とは大きな違いだ。

視線の移動について。まず「箸を持つ」手のクローズアップから入る。「きみが見つめる」で「きみ」の目や顔、「タコわさ」でもう一度箸の先。

一読したとき、「箸」「タコわさ」という近い場所への視線が「きみ」 によって分断されてしまっているような印象を受けたがそうではない。丁寧に読むと、「箸」「きみ」「タコわさ」は同一直線上にあるのだ。「ぼく」が前を見る。「箸を持つ」手がある、やや奥に「きみ」がいる、「きみ」の視線に合わせてピントを戻せば「タコわさ」がある。この時点で「ぼく」もタコわさを見つめている。

すなわち、「箸を持つきみが見つめるタコわさに」というタコわさの説明によって「ぼく」の位置や視線が暗に描写されている。さらに、

ぼくはわさびが苦手

どうして自分が「わさびが苦手」であることに思い至ったのか。それは「きみ」に向かって「ぼくは食べられないよ」と伝えたからに他ならない。「きみ」が勧める「タコわさ」を断らなければならない切なさ、「きみ」に好かれるなら「タコわさ」にだってなりたいくらいだけれども、わさびが苦手なせいで、些細なことではあるがある意味で「きみ」を拒絶し距離を離してしまった気がする。

......という歌だ。この解釈があっているのかわからないけれども、あっているとしたら言外にもう一つのストーリーを併せ持った豊かな世界を持つ歌だと言わねばなるまい。

「アパルトマン」 は整った姿をした歌だが、内容が歌謡曲の歌詞のようにありきたりなので(本人にとっては切実な実体験が元になっているのだろうが)あまり褒めるところがない。

割とこういうタイプの歌も多い気がする。もちろん、100首作って100首全てが絶唱である必要はないので、ありきたりな歌があってもいいのだが。

夜風が押し出しているカーテンにきみが隠れていてほしかった

たそがれに道を行き交う人々がすべてあなたに思えてしまう

楽しいね灰色のシャツ染め上げるゲリラ豪雨もあなたとならば

冗談を風に乗せては見合わせた笑顔はきっと磁石なんだね

もちろん、例えば「離れている恋人がカーテンに隠れていたらなあ!!」という切実な思いには共感できるけれども、歌のなかに新たな気づきがないから、心の眠っている部分を刺激されたりはしない。

ついでだから、失礼ながらもっと極端な、何の技巧もない歌もあげておく。想像だが、これらの歌は作品というより、恋人(だけ)へ贈るという性格が強かったのではないだろうか。結局、思いを伝えるのは修辞ではないので。

くだらない冗句で笑い合っているきみがいなけりゃ笑わないのに

違うちがう眼鏡じゃなくてあくまでも眼鏡をかけたきみがかわいい

映画館出ても眼鏡をかけているきみの映画の主役になりてえ

(「映画館」の歌について。「きみ」は目の悪さが半端なために、映画館であるとかそういう遠くをしっかり見る必要に駆られた時にしか眼鏡をかけないのだろう(僕もそうだ)。それが、映画館を出ても眼鏡をはずし忘れてそのままかけている。「きみ」が眼鏡をかけているということは、今見ているこの世界も映画なのか? と主人公*2は現実を映画に見立て、それならばその映画の主役になりたいと述べている。内容としては凝っているので、一緒にされるのは不本意かもしれないが、やはり「きみの映画の主役になりてえ」で心を動かすのは無理だろう)

映画といえばで、次の歌を挙げておく。

ぼくたちは世界の隅でキスしよう主演女優は月に譲って

これは印象的ないい歌だと思う。四句の「主演女優」が遡って「世界の隅」に作用して、歌全体を映画の世界のように見せている。世界の「隅」というからには周りに建物が想像され、それは映画に出てくるような素敵な建物であり、映画のような素敵な夜に包まれている、という具合である。

描写

内容がほとんどないような歌がある一方で、しっかり対象を描写した歌もあって、いい歌が含まれている。「タコわさ」もその中に入れられよう。

灰色のTシャツ一枚黒ズボン手にはエビアンきみが好きだよ

コーヒーが苦手だったねそういえば 平たくなったストローの口

誇らしい顔したきみが皮肉だと気がつくまでの二秒を愛す

エビアン」 。この歌集には胸焼けするくらいの「きみが好きだよ」が詰まっているが、Tシャツ、ズボン、ペットボトルと並べられた「きみが好きだよ」はさりげなくて、確かにそこに「ある」 感じがする。

「ストロー」。この歌は人気あるんじゃないかな。俗にいえば「あるある」を上手にすくい取っている。でも恋歌という感じはしない。むしろ、久しぶりにあった友人であるとか、そういう哀愁を感じさせる。

ふるさとの訛なくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし  寺山修司

を思い出すからかな。ふるさとの訛りをなくした友にストローを噛む癖は残っていたとしたら愛せるよね。

「二秒」。「誇らしい顔をしたきみが皮肉だと気がつく」という語句を読んで、読者が意味を理解するちょっとしたタイムラグが「二秒」と重なって趣向を加えている。

描写というと簡単なようでいて、何が読者に響き何が響かないのかということを事前に予測するのは作り手としては難しい仕事だと思う。取想くんがよく食べ物や小さい小道具に目を向けているのはディテールを描かんがためだと思うが、そのいくつかは成功し、いくつかは失敗する。

増えてゆくRe:Re:Re:はいつまでもきみの心に届かない恋

台風が来たら電話をするからと言ったあなたにかけたい電話

携帯電話を題材にした二首だが、「増えてゆくRe:Re:Re:」の持つ映像はせいぜい携帯電話の画面、一方「台風が来たら電話をする」というのはその季節であるとか台風前夜のたかぶりを十分に描いている。

どちらの事実も作者にとっては同じくらいリアルな「事実」だったのだろうが、読者の受け取る情報の量は大きく異なる。

他にも、効果的な題材が捉えられているものを鑑賞したい。

葉は染まるふたりで海を見るためのブルーシートを捨てられぬまま

「夢みたい」つぶやくきみよ目覚めてもスーパーボールはそこにあるのだ

「ブルーシート」。「海を見るためのブルーシート」が実感を与えている。「レジャーシート」や「テント」ではなく「ブルーシート」を買う感じが主人公の不器用さを表しているようで良い。

細かいことをいうと、「葉」と現実の紅葉に目が向けるより「葉染まるふたりで海を見るためのブルーシート捨てられぬまま」とブルーシートを強く提示する方がスッと通る気がするが如何。

「スーパーボール」。この小物が状況説明を全て背負っている。二人は祭りに行き、スーパーボール掬いをした。祭りの情報が歌の上から省かれているおかげで、夢から醒めた後の静寂が印象付けられる。思わず、歌中の「スーパーボール」を読者である僕もじっと見入っているような気持ちにさせられる。

アフォリズム・比喩

結構多いのが<ooはxxなのだ>と<その理由など>の組み合わせ。これは佳作が少ないように思う。

冗談を風に乗せては見合わせた笑顔はきっと磁石なんだね

人生の良薬なのだこの恋はこれほど苦いものであるなら

交わらぬ平行線は重なれる唯一の線だ傘をひらけよ

伝わらぬ想いが恋を焦がしてる半導体は熱を生むのだ

「人生の良薬」 については後述する。

「傘をひらけよ」はそれなりに良いが、この歌は「傘をひらけよ」でもっているだけで「交わらぬ平行線は重なれる唯一の線だ」という理屈に感動を見いだすのは難しい。それから、「重なることができる」を「重なれる」 というのは言葉の上で若干無理ではないだろうか。

僕は比喩がそれだけで美しくあることはほとんどないと考える。比喩は、元の内容とかけ離れたイメージをもたらし世界を広げてくれる。しかし、イメージを与えることではなく喩えること自体を目的とした比喩は何ももたらさない。 「磁石」が冗談を言い合う笑顔にどんなイメージを付与しただろうか。

一方、「半導体」は「恋が焦げる」という抽象的な内容に対して、素子が焼け焦げる「ジジジ」という音や臭い(取想くんはトランジスタが焼ける臭いを知っているのだろうか!)といった具体的なイメージを付与していて比喩としては成功している。ただ、電気電子工学科卒から言わせてもらうと、熱を生むのは抵抗だ。電流が流れなければ熱は発生しない。

対して、この形で僕が良いと思ったもの。

使ってる言語がどうも違うのだ「好き」って言葉がとても悲しい

これは比喩ではないけれども。

「好き」が噛み合わないことをテーマにした歌はこの他にもいくつかあるがこれが一番いいと思う。「どうも違うのだ」に、歩み寄りの努力とその結果の諦めが実感を伴って表現されている。

文語

話は変わるが、取想くんは砕けた文体と文語体をしばしばごっちゃにして使う。

きみの見るきみが可愛くないとてもぼくから見たらとても可愛い

言いし一語一句を思い出す一語一句は思い出せぬが

海上を駆けるボートを思い浮くきみが笑顔で食うシブースト

どうしても、文字数の関係で文語っぽい表現にしてごまかしてしまおうという感じに見えてしまう。「としても」 「が言った」「思い浮かべる」が入らなかったから...という風に。

だいたい、「君言いし」は文語としても「君が言いし」の方が自然なのではないだろうか*3

「思い浮く」も厳しい。やはり文語にせよ口語にせよ、一読して違和感のない日本語にしていただきたいものだ。

全体を文語にした歌もあって、それは挑戦として評価できる。

はつ秋に売れ残りたるスイカバー好いてはくれぬ人をぞ思ふ

これは連句的な構成で、「はつ秋に売れ残りたるスイカバー」はこれだけで発句(俳句)的特性を備えている。それに対して、「好いてはくれぬ人をぞ思ふ」と付けたような形だ。若干文語が板についていないような印象もあるが、「スイカバー」という現代的小物と「はつ秋」に象徴される文語的世界の取り合わせが面白い。

修辞

修辞について、結構色々な試行錯誤の跡があるので見ていきたい。

穿ちすぎかもしれないけれども、独学の歌人である取想くんは「短歌は何を歌うものか」ということについて定まった考えを持っていなかったのだと思う。

なんらかの感情を歌い上げるものとしての短歌もあるし、機知的な遊戯として「31字でどれだけ面白いことができるか」というような短歌もある。

どちらかというと後者に属するものだろうが、言葉遊びの類は結構多い。

人生の良薬なのだこの恋はこれほど苦いものであるなら

この恋はまもなく離陸いたしますシートベルトをお締めください

間違いの選択肢切る方法を教えるぼくは恋をきれない

いずれもあまり深い鑑賞はできないけれども、上手いなとは思う。

「人生の良薬」については、音の配列上の特色があるので取り上げたい。

「この恋」「これほど」の頭韻はもちろん、中盤での母音"o"の畳み掛けが重々しい調べを作り、苦味に説得力を加えている。もっとも、これは作者の無意識によって得られた成果だろう。

じんせいのりょうやくなこのこいは ほどにがい ものであるなら

意識的に行われたと思われる音韻上の技法としては次のようなものがある。

楽しげに話すあなたの目は琥珀 お好み焼きの底は焦げ付く

琥珀」「焦げ付く」で韻を踏みつつ、「琥珀」という綺麗なイメージと「お好み焼きの焦げ付き」 という俗なイメージを対比させている。しかし言いたいことが明瞭ではないので(多分「お好み焼きの底が焦げ付くくらい話に夢中で楽しかった」ということだろうが、そう受け取るには若干の親切さが必要だ)あまりいい歌だとは言えない。

「タコわさ」で触れた視線の誘導ということに関しても、彼は 意識的にやっているんじゃないかと思う。そう思うと、以下の歌などは習作のように見えてくる。

振り返る 手を振るきみが目に入る 急性かわいさ中毒で死ぬ

それから、意識的かどうかわからないが、会話体は結構成功している。

「ぼくのことどれだけ知ってるんですか」「きみはわたしのことが好きです」

「どうして誘ってくれたの」「それはきみのことが好きだからだよ」でキス

「君なら許してくれると思ったから」「君だから許してあげるよ」

それから上でも述べた比喩だが、そもそも比喩を使いこなすということ自体が難しいので佳作は少ない。

きみという太陽といた八月の記憶は肌を染め上げたまま

リンスとかコンディショナーをしていない髪の毛のごと絡み合いたい

「きみ」を「太陽」に例えるのはありきたりな上、「きみという太陽」という勿体ぶった言い回しが比喩の品格を下げていると思う。対して、三句以降は実際の太陽による日焼けと「きみ」との記憶のイメージが分割不可能に提示されていて効果的だと思う。

「リンスとかコンディショナーをしていない髪の毛のごと」という比喩はありきたりではないが、その喚起するイメージが「絡み合いたい」という句の内容に特に何も貢献していないように見える。せめて、「リンスとかコンディショナーをしていない髪」はどこから来た映像なのかが示されれば読者としては鑑賞の手がかりとすることができる。

一方でいい比喩ももちろんある。

きみの髪の手ざわりがする堂園昌彦の歌集を読めないでいる

いい歌だ!!

僕は堂園昌彦の歌を知らないが、歌集と「きみの髪の手ざわり」の結びつきはこう述べられると必然的であるように感じられる。きっとこの歌集にとって「きみの髪の手ざわりがする」以上にぴったりの措辞はこの世にないのではないかと思わされる。優れた比喩がおしなべてそうであるように。

その他愛唱

深緑が青色になるほど遠くとおくに見えるうしろ姿だ

ぼくにはこれは俳句に見える。意図した読みは「しんりょく」だろうが、「ふかみどり」と読ませて一息に読み下せば種田山頭火などの自由律俳句の姿をしている。

景としては、深緑に茂った夏の山々が青く見えるほど彼方にあり、おそらく主人公はその山に背を向けて歩いている。あるいはバスや電車に乗っている。振り返ると、先ほどわかれた相手(恋人であろうが、この歌だけを見れば友人でも父親でも誰でも良い)の後ろ姿が見える、と言ったところか。

ただし、僕がこれを良いと思うのは「深緑が青色になるほど」が事実である場合であって、比喩として用いる場合はよさが減ってしまうと思う。

この涙冬が来るまで我慢しようあなたは雪を好きだと言った

「あなたは雪を好きだと言った[から]この涙冬が来るまで我慢しよう」とも取れるし、突き詰めていったらそうなのだろうが、僕は「あなたは雪を好きだと言った」と「この涙冬が来るまで我慢しよう」を別のものとして受け取りたい。

「あなた」は「雪を好きだ」と言い、主人公はふと「涙は冬が来るまで我慢しよう」と思った。その二つの景がわかれていることによって世界は深くなり、切なさも増すと思う。

通過する列車だきみは止めるため投げ込んでみる向日葵の束

短歌としての完成度はあまり高いと思えない。特に「通過する列車だきみは」は拙い。しかし、列車を止めるために向日葵の束を投げ込むというイメージは実に気持ちいい! 比喩であって風景の描写ではないのに、走りゆく列車や燦々たる日差しが眼に浮かぶようだ。そしてまたそのようなイメージをもって「きみ」に対しているというのも爽やかである。いい恋が始まりそうな歌は歌集中これだけではないだろうか?

駅のトイレで嘔吐しているときに電話をしたくなったら恋だ

これは題材がすごくいい。しかし、歌にする時に若干の嘘が入っていないか。作者の思いは、「(恋人が)駅のトイレで嘔吐しているときに電話」してきてくれて嬉しい、また逆に、そこまでの存在として見てくれているのになぜ思いを受け入れてくれないのか、というところにあるのだと思う。それを無造作に「恋だ」と言い切ってしまうのはもったいないような気がする。(「電話をしたくなったなら恋だろ」だとまた違った印象になるのではないか?)

ともかく、文句を言ってしまったが好きな歌である。

頭から羽根を生やしたきみの手のつめたいしろいやわいなきたい

これもいい。情景はあまりわからないが、「つめたいしろいやわい」が間接的に示す切なさを、その心象風景を描いたような歌だ。

切なさは僕にとって白くて冷たいものであるらしく、このような歌には強く共感してしまう。「頭から羽根を生やした」の意味がわからない*4が、白くてモヤのかかったような心象風景に貢献している。

ところで、穂村弘にこんな歌がある。

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

後半部分がよく似ている。僕は取想くんが穂村弘を読んでいるかどうか知らない。知っていて、換骨奪胎ということで上記の歌を作ったとしても、知らずにたまたまかぶったとしても、取想くんの歌の価値が傷つけられるようなことはないが、面白いので比較してみよう。

後半部分で形容詞を列挙することによって、まとまりきらない言葉にならないような感情を描いているところは共通している。

穂村弘の歌ではこれらの形容詞は全て感情にまつわる表現だが、取想くんの歌では「つめたいしろいやわい」は「きみの手」の形容である。

全体の構成を眺めると、穂村弘の歌は、「サバンナの象のうんこ」と感情の列挙の二部構成と言える。 対して取想くんの歌は初めから最後まで同じ場面を描いている。その代わり、「きみの手」という具体的なものから出発してだんだん心象風景、感情の方にシフトしていく感じである。

技巧の上では、穂村弘の方が明快で上手い。「サバンナの象のうんこ」によってイメージが暴力的に拡張され、その中に「だるいせつないこわいさみしい」という混沌とした感情が注ぎ込まれる。さらに、歌の価値ということを考えれば30年前に発表されていること、実験的であることにも触れておかねばならない。

取想くんの歌は、イメージは判然としない。

しかし、言ってしまえば僕は取想くんの歌の方が好きである。穂村弘の歌は技巧が冴えすぎていて、主人公が本当に「だるいせつないこわいさみしい」と思っているとは思えない。主人公の中で、「サバンナの象のうんこ」はかなり冷静に捉えられているし(というのは、二つの「の」によって「うんこ」を限定するという述べ方からわかる)、感情もぐちゃぐちゃなようでいて明確に言葉になっている。

取想くんの歌では、実際にある「きみの手」も「泣きたい」 という感情も未分化のままぐちゃっと提示されていて、そこに人間の感情らしさを感じる。 こうなってしまっては、泣くしかないんだろうなという現実感がある。

取想くんがもし穂村弘を読んでいなかったとしても、穂村弘を読んだ幾人かの歌人の歌を読んでいることだろう。

30年前は技巧と実験の産物であったような形が、現代において素直な実感を持って生まれ替わってくるというのは素晴らしいことだと思う。

*1:取想くんや僕が主宰しているジャズ文芸誌『I Could Write a Book』に彼が寄稿してくれた連作の一つで、『Crazy He Calls Me』というジャズスタンダードの歌詞の本歌取りになっている。青い鳥|i could write a book - ジャズ文芸誌|note

*2:実際には取想くんなのだろうが、本記事では短歌を独立したものとして扱うので、歌の主体も代入可能なものであるとして「ぼく」や主人公などと呼ばせていただく。

*3:ちょっと調べたみたら、主格の格助詞ガやノは主節では基本的に省略される一方、従属節では省略されないことが多い、とある。だから、省略しても間違いではないことになるけども、少なくとも近代以降における文語表現としては「君が言いし」が普通なんじゃないかなあという主観に基づいてこう述べた。

*4:本を読むと、なんとこれはツインテールの比喩らしい! そのことは黙っておいた方がいいと思う。歌の上から、この「羽根」は白かった方が全体にあうし、例えば「きみの心が僕の元にはない」ということを象徴的に表しているなどというふうに読んでおいた方が得だと思う。

俳句は実はすぐそこにある

本記事は、Kyoto University Advent Calendar 2019 - Adventarの4日目の記事です。 3日目の記事はsimizut22 さんの D進した - s.t. は such that ではありませんでした。

社会人から博士(社会人博士か否かにかかわらず)というルートにはすごく興味を持っているので、退職エントリ含めてふむふむと拝読いたしました。

ところで 「s.t. は such that ではありません」は575(正確には585)ですね! と言うわけで僕は俳句について書いてみます。

2020/9/4追記

この記事は俳句を学び始めたばかりの頃に書いたもので、今読み返すと恥ずかしい内容を含んでいます。 特に自作の例句に関しては。

しかし、重大な誤りが含まれているようには思わないのでそのままにしておきます。参考文献については、より適切な本に出会ったので更新しておきます。

自己紹介などなど

京都大学電気電子工学科卒情報学研究科知能情報学専攻M1です。情報学系ではあるものの特にプログラミングの成果物もないし、このようなAdvent Calendarに参加させていただくのは恐縮の極みなのですが、貴重な機会なので参加させていただきました。お目汚し失礼します。

先日、伊予松山に旅行に行きまして、俳句への力の入れように感心しました。いたるところに「俳句ポスト」なる投句箱があり、小学生の俳句作品が並び、電光掲示板にはコンテストの入賞作品が映る...。

もともと「プレバト」の俳句査定が大好きで、 せっかくだから一句ひねってやろうと思ったところ、捻り終わらないまま帰りの電車となってしまいました。

無念、俳句ポストよ...と思いながら未練がましく「俳句ポスト」と検索してみたら次のサイトがヒット。

haikutown.jp

松山公式の俳句投稿サイト、しかも選者は「プレバト」でお馴染みの夏井いつき先生ではないですか。これは運命だ、俺は俳句を始めなければ、と思い立ち、細々と作っています*1

作りながら、どうもこんなに良い趣味はないらしいぞ、と思ったので紹介させて頂きます。

Twitterも短文だし、みんな定型文は大好きだから俳句と親和性の高い人は僕以外にもいると思うんです。

ずいぶん記事が長くなってしまったので、読むのが面倒な方は「俳句をつくるって一体」だけ読んでいただければと思います。 暇な方は残りも是非。

それから、本記事の主張のだいたいは僕の個人的意見で、話半分に読んでもらうのが安全です。正岡子規俳諧大要』、並びに夏井いつき『超辛口先生の赤ペン俳句教室』をもとに書いた部分もあり、(正岡)などと記しています。そこは信じても大丈夫です。

俳句とは?

俳句とはなんでしょう。季語の入った575? 

それが一般的な定義ですが、以下で異を唱えていきます。

575 == 俳句 ではない

「俳句」 に比べると「575」は随分とポピュラーです。標語やポスターなんかにもよく使われていますし*2Twitterでは#n575とか#a575とかいうタグをよく見ます。n575は「偶然に生じた(natural)575」、a575は「意図して作った(artificial)575」だそうです。

しかし、575がすなわち俳句か? といえばそうではありません。あるいは川柳か? というとそれも違います。

よくある「季語がある575は俳句で、残りは川柳」というような理解も間違っています*3。「575」は俳句にとって大きな特徴の一つですが、必要条件でも十分条件でもありません。

「俳句」のような形のないものに厳密な定義を与えることはほとんど不可能なので、気持ちで感じ取って欲しいのですが、俳句は「美」を表現するものです。

「美」などと言うとドンびいてしまう人もいらっしゃるかと思います。それなら「趣」でも「よさ」 でも「エモ」でもでもなんでもいいんです。「きれい」などの純粋にポジティブな感情には限りません。吐瀉物を見て、えも言われぬ感慨を持つことだってありえます。そんなような場合も、ここでは「美*4」として考えたいです。「心に沁みる、あるいは響くような感動を与える何か」が美です。

「美を表現していること」以外にもう一つ俳句の条件を挙げるとすれば、それは「短いこと*5」です。

短文に濃密な情感を込めようと先人は様々な努力をし、それが俳句独特の表現技法となって「俳句らしさ」を支えています。この、「短い文字列で豊かな表現を」という努力自体が俳句を特徴付けているように思います。

表現技法については後段でより詳しく述べます。

無季俳句や自由律俳句というものがあります。僕自身、高校で自由律俳句に触れたとき、「これはどこを以って俳句と呼べるんだ...」と悩ましい気持ちになりました。次の句などは有名です。

咳をしても一人   尾崎放哉

「575」ではありません。どこが俳句なんだ!

しかしやっぱり「咳をしても一人」という短い文字列から伝わってくる切実な孤独はまた一つの「美」なのです。日本最高濃度の孤独です。

これが俳句の表現です。

まとめると、俳句というのは

  • 短くて(だいたい17文字くらい)
  • 「美」を表現している

というようなものです。

俳句と川柳

比較のために「川柳」 について考えてみます。前述した通り、「季語がある575は俳句で、残りは川柳」は偽です。

川柳はもともと「うがち・おかしみ・かるみ」を掲げていました。witに富んでいる、うまいこと言っている、というようなことですね。

孝行のしたい時分に親はなし    (古典)

などというのも川柳です。

最近ではサラリーマン川柳やシルバー川柳がよくバズっていますが、これらは川柳の初期思想によく合致したものだと言えます。

event.dai-ichi-life.co.jp

「バズる」と言いましたがTwitterとの親和性が高いのも頷けます。

川柳は軽くて明るくて、笑ってしまうようなもの、俳句はしんみりと心に響くもの、くらいに捉えてみるとわかりやすいかもしれません*6

2024/4/21追記 この章で現代川柳に触れていないのは(当時は知らなかったからです、すみません)片手落ちの感があります。

現代川柳は完全に言語芸術であり、芸術である以上美のフィールドにあります。俳句と並んでとても面白いジャンルであり、ひょっとすると俳句よりおすすめの趣味でさえあるかもしれないのですが、本筋とは離れるのでおすすめのアンソロジーだけ紹介しておきます*7

www.kankanbou.com

俳句をつくるって一体

「俳句を作ろう!」と思った人がどうやったら俳句を作れるようになるか、それについて書かれた本はたくさんあります。 一方この記事では、一体どういう経緯があれば人間は俳句なんて作るのか? というところから見ていきたいと思います。俳句を作ろうなどとは考えもしない人が大半だと思うので。

日常に詩を得るまで

京大生に人気の「美」として鴨川を挙げようと思います。「美」というと大層ですが、例えば「いい感じの場所」「エモスポット」などと呼んでも同じことです。

ここで一つ、あなたが鴨川にいるところを思い浮かべてみてください。

.......

思い浮かんだでしょうか?

その風景/そこでの体験が心に沁みたので、例えばTwitterにこんな風に呟くとします。

鴨川〜

この呟きは既に「詩」 の性格を持っています。なぜか?

今度はツイートを見る側に立ってみてください。つまり、あなたは家とかにいて、Twitterのタイムラインを眺めていたら「鴨川〜」というつぶやきが目に入った。

そうすると、あなたは(そのツイートに注意を払う気があったとしたら)鴨川の様子を思い浮かべると思います。そして「この時期の鴨川はいいよな〜〜」などといった感想を持ちます。ツイート主とあなたが親密だったとしたら、もっと細かい想像ができるかもしれません。「あいつのサークルはデルタで飲み会をしがちだから今日も飲んでるのかな〜、鴨川で飲む酒いいなあ〜」などと......。

こうしてみると、当該ツイートは

  • 「美」に感動した人(作者)によってなされた表現で、
  • 他者にその「美」を想起させ、
  • 作者の感動を伝える

と言えそうです。「詩」っぽくないでしょうか。(何が詩で何がそうでないかという話ではく、直感的に「ただの呟きも詩としての性格を持ちうるなあ」と思っていただけたら嬉しいです)

詩に普遍性を -introduction

とは言え、「鴨川〜」 が文学作品として成立しているかというと微妙なところです。「鴨川〜」という文字列自体には具体的な鴨川を想起させるほどの力はありません。Twitterでの呟きだからこそ、「自分が呟きを見たちょうどその時(あるいはその少し前)の鴨川の様子」が想像できるのであり、「わざわざツイートするくらい何かを感じたんだな」という共感が持てるわけです。

「鴨川〜」という表現には普遍性が欠けている、と言い換えることもできます。限られた人(おおよそリアルタイムでそのツイートを見た人)しか理解できないからです。

そこで、次には「鴨川〜」に普遍性を加えて、より伝わる表現にしてみたいと思います。

ここが最大の非自明なジャンプです。

多くの人は、つぶやきによって限られた人の共感を得るので十分だと感じるでしょう。むしろ、「俳句」などという小難しい形式を採用すれば、得られる共感は減ってしまうかもしれません。でも、「鴨川〜」はある意味で「詩」なのです。これにちゃんとした形を与えて作品にすることはなかなか良い自己満足になりそうではありませんか?

日記の片隅に書いても良い、うまくできたならどこかへ投稿しても良い。なんであれ、もう少しであなたの呟きは「俳句」になるのです。それって素敵なことではないですか...?

それは例えば何気なく風景の写真を撮った時に、ちょっと加工を加えて「良い感じ」にし、自分が感じた風景の魅力を写真の中に再現しようとするその努力と同じようなものです。

よし、じゃあその努力をしてみようじゃないか、と思っていただいた体で次へ進みます。

詩に普遍性を -experiments

それでは満を持して「鴨川〜」の改良を行っていきたいと思います。

まず、「鴨川〜」だけではいつの鴨川かがわかりません。別に5W1Hを揃えろというわけではないのですが、鴨川の風景を思い浮かべるにあたって時間情報は大事そうです。春の陽の照るのどかな鴨川、夏の夜に語らいの場となる鴨川、秋の夕に寂しさを見せる鴨川、冬の晴れ渡った朝を映す鴨川......、それぞれ全く違った情景です。

試しに、作者は夏の鴨川にいたのだとしましょう。

夏の夜の鴨川

これで、鴨川を知っている人なら誰でもイメージが浮かぶ気がしてきます。「なつのよのかもがわ」で9音ですから、あと8音で俳句ができてしまいますね。

「夏の夜の鴨川」だけではなんとなくの風景は想像出来ますが、作者の見た景色や感じた内容についての情報がありません。8音を使って読み手により詳細なイメージを与え、あわよくば自分と同じ感動を味わってもらいたいところです。

例えば、鴨川で何をしていたのかを書いてみます。友達とビール(例えばアサヒスーパードライ)を飲んでいたかも?

夏の夜の鴨川アサヒの缶二つ

一人で物思いに沈んでいたかも? (例えば小石を拾って弄びながら)

夏の夜の鴨川ひとり石を撫づ

自転車で走っていたかも?

夏の夜の鴨川ペダルを踏めば風

これで俳句の完成です。出来は平凡ですが...

日常的な感性と、「俳句を詠む」ことの懸隔が意外に小さいと感じてもらえたらこの記事は大成功なのですが、いかがでしょうか。

俳句の技術

「575 == 俳句 ではない」でも述べたとおり、俳句には色々な技術があります。その多くはやはり「短い文でいかに豊かな表現をするか」に心を砕くものです。

技術を知ることは俳句を鑑賞するときの役にも立ちますし、純粋に面白いものばかりです。あまり文章に長けていない僕が言うのも説得力に欠けますが、普段の文章の執筆に役立つ知見があるかもしれません。

俳句を読む一つのガイドラインになったら良いなと思います。もし本当に自分で俳句を詠みたい方がいらっしゃったら、この記事ではなく有名な書籍を当たった方が良いですが...。

写実

何を詠むにしても、結局伝えたいのは感動した自分の気持ちであることが多いです。「鴨川を見て美しいと思った」「友と語らって胸がいっぱいになった」などなど。

感動を伝えるのには大きく二種類あります。

一つは感動をそのまま表現すること。

もう一つは感動を引き起こした事物を描写することによって、読み手に同じような感動を伝えようとすること。

両者に優劣はありませんが、俳句は比較的後者に向いた形式であるようです(正岡)。17文字で表現しうる感情よりも、17文字で表現しうる情景の方がバラエティに富むからでしょう。

感動・感情をそのままストレートに表現したものとしては、例えば次のようなものがあります。

玉まつり悲しきものと覺えけり   正岡子規

また、同じ正岡子規でも事物を描写したものとしては次の一句が死ぬほど有名です*8

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺   正岡子規

複雑さとしては後者の方が随分勝ります。「鐘」の音、「法隆寺」を含めた奈良の風景...そこで「柿」を食べながら一休みしている、とどんどんイメージが広がりますし、その時の心情は十分に想像できます。

一方「玉まつり...」 の句は内容としては「玉まつり」が「悲しい」、これだけです。玉まつりというのは魂祭、すなわち先祖を迎え、送る祭りです。

先祖の死というものに向き合ったとき、一切の技法を捨て「悲しいと思った」と率直に述べるのがいかにも切実な印象を与えます。僕はこちらもとても好きです。とは言え、これはかえって超高度な技法です。「悲しい」などという感情は平凡なものですから、それを平凡でなく表現するのはなかなか難しい。

写実においては、初心者でも玄人を唸らせるような句を作りうる、と正岡先生も述べています。

ハイコンテクストな表現

限られた文字数でそれ以上の表現をするには、ハイコンテクストな表現を用いるしかありません。 ハイコンテクストというのは、書き手と読み手の間で多くの前提を共有しているということです。

例えば、先ほどの「鴨川」が良い例ですが、割と簡単に俳句ができてしまったのは「鴨川」がハイコンテクストな単語だからです。

京大生であればほとんどの人が鴨川をイメージできますし、それなりに多くの人が鴨川にまつわる思い出を持っていることでしょう。それを文脈とすることで、「鴨川」の一単語で比較的豊かな情景を喚起することが可能になります。 これも「名所を詠む」という俳句の1技術と解釈できなくもないかもしれません。

伝統的な技法の中にも、ハイコンテクストな表現を用いるものがあります。

季語

季語はもともと和歌の「題詠」から来ています*9。すなわち、◯◯をお題として和歌/俳句を詠みましょう、ということです。今でも、俳句の投稿コンテストなどでは題として季語が指定されていることが多いです。

そんなわけで、季語を「技法」として捉えることはあまりない気がします。

しかし、なぜ季語がルール化しているかと言えば、季語を使うことで表現がより良くなると考えた人が多数派だったからです(夏井)。「表現をよりよくするもの」それは「技法」と呼びうるのではないでしょうか。

さて、季語がなぜより良い表現につながるか。大きく二つの理由があるように思います。

一つ目はそれが「ハイコンテクスト」だからです。季語というのは季節を感じさせる事物で、多くの俳人が句に取り入れてきたものの総体です(夏井)。だからその歴史の中で相応の「文脈」を獲得しています。

素人にはちょっと意外なのですが、季節を感じさせればなんだって季語かというとそうでもない。あるいは、年中存在するものでも季語として詠まれてきた事物はある季節を代表することもあります。

例えば、「滝」は夏の季語です*10

滝落ちて群青世界とどろけり  水原秋櫻子

そんな! と思うんですが、これが逆にメリットを持ちます。すなわち、季語は多くの俳句に詠み込まれてきた歴史がありますから、「滝」という季語には「夏、緑が眩しい山奥で落ちている滝」のイメージ(那智の滝とかをイメージすればいいかと思います)が染み付いているわけです。これは鑑賞者にスキル(というか沢山の俳句の鑑賞経験)を要求しますが、表現者としては都合がいいです。一語で豊富なイメージを喚起できるからです。

季語のもう一つの効果としては、前述の写実の要素を自然に取り入れることができることが挙げられます。

何か現実世界の事物を表現するとき、少なくともそれが「どの季節か」を明確にすることは写実的な表現に必須です。そのようなことを根拠に、正岡子規*11高浜虚子といった一派が「季語はちゃんと入れろ!」と主張しました*12。これが容れられて、今でも「季語は入れた方が良い」が一般的となっています*13

切れ字

小学校〜高校で「俳句を作りましょう」と言われたらとりあえず加えてみる「や」「かな」「けり」。

これらは「詠嘆」と簡単に紹介されがちですが、なかなかハイコンテクストな代物です。

特に「や」は暗黙のうちに「ありったけの想像力で情景を思い浮かべろよ〜〜! 思い浮かんだか〜〜〜? 次からカメラアングル変えるぞ〜〜!」というようなメッセージを持っています。例えば

さみだれや大河を前に家二軒   与謝蕪村

この「さみだれや」は別に「五月雨が降っているなあ」ということではないのです。「さみだれや」を受けて、読み手は五月雨が降りしきるのを想像します。想像し終わったところで、「大河を前に家二軒」と具体的な視覚情報が飛び込んできて、あらかじめ想像した情景とあわさって壮大さを得ます。

ぜひ、次から俳句を読む際に「や」 が出てきたらそんなような気持ちで鑑賞してみてください。

古池や蛙飛びこむ水の音     松尾芭蕉

も同じように鑑賞できます。どっちかというと蕪村の句の方が良いように思いますね*14

冗長性の排除

ハイコンテクストな表現を使えば、短い文字列でゆたかな表現ができることを述べてきましたが、そもそも無駄な表現をしないことも俳句においては大切とされています。

これはプレバトを見れば毎週楽しみながら学べるのでオススメです。

www.mbs.jp

ちなみに夏井先生は冗長性の排除について「むしろ理系とされているような人に向く作業である」というような趣旨のことをおっしゃっています。

夏井先生のような添削を僕がやるのはおこがましいんですが、そのまま引用するのもまずそうなので、なんとか自分でやってみます。

先ほどの「鴨川〜」の 例を考えてみると、例えば「友達とビールを飲んでいる」設定では

夏の夜の鴨川友とビール飲む

などとしがちです。「ビール飲む」が冗長なのがわかるでしょうか? ビールはありゃ飲むからです。*15

それから、「ビール」 は夏の季語なので「季重なり」と呼ばれる季語が二つある状態です。これは解消するのが望ましい*16ですが、多少形式的な話なのでそこはスルーしておきます*17

「飲む」を削ると二文字余るのでどこかに情報を加えることができます。僕はより具体的なイメージが湧くように「缶」を入れたいな〜と思いました。

夏の夜の鴨川友と缶ビール

ん〜〜、「友と缶ビール」では何を思い浮かべたら良いのかわからないので、焦点を缶に絞ってしまいます。

夏の夜の鴨川二つの缶ビール

お前のと、俺のと。(一人で二つ飲んだ可能性が出てきてしまいますが、それはそれで良いでしょう)

あとは、「ビール」より「アサヒ」とか言った方が情報量が多いので*18

夏の夜の鴨川アサヒの缶二つ

とこうしました。どうでしょう...

発想が凡庸なので平凡な句ですが、凡庸な発想の表現としてはそれなりにまとまっている気がしています。

本当に俳句を作ろうかなと思ってくれた人へ、そして参考文献

俳句とは575ではない、季語ではない、と言いました。しかし、マジで作るなら575も季語もちゃんと守ってください。その方が良いものができると夏井先生も仰っています。

季語は「季寄せ」あるいは「歳時記」にいっぱい載っています。四季があることは今後日本の一番の強みになっていくのでぜひ手に入れてみてください。

最後に参考文献かつオススメの入門書を。

2020/9/4追記 現段階では以下の書籍をよりお勧めします。

夏井いつき『夏井いつきの世界一わかりやすい俳句の授業』PHP研究所, 2018

  • 0からの俳句入門ができる

藤田湘子『新版20週俳句入門』角川書店, 2013

  • 本格的に俳句に入門できる

高浜虚子『俳句とはどんなものか』青空文庫, 初出1927

  • kindleなどで無料で読める。タイトルの通り、「俳句とはこういうものなのか」という納得感が持てる良書。

追記終わり

正岡子規俳諧大要』岩波書店; 改版、1983

夏井いつき『超辛口先生の赤ペン俳句教室』朝日出版社、2014

  • これは割とプレバトまとめのような感じです(2020/9/4追記)

Twitterには俳句を延々と呟くbotがたくさんあるのでフォローしてみると楽しいです。気に入ったら図書館、そして書店へぜひ。

長々とお付き合い頂きありがとうございました。

Next blog!

5日目の記事ははなまさんの『ウイスキーはいいぞ』です。僕もスコッチが好きなので共感しきりでした。

ラストに紹介されたエッセイも最高なのでぜひチェックしてみてください。

ウイスキーすつくと立てる夜涼かな  高田風人子

買ひ来てし瓶はアイラの潮に満つ   たんす

casta46.hatenablog.com

*1:なお、僕は締め切りを守るのがめちゃくちゃ苦手で、これまで3回くらい投稿用に俳句を作ったんですがどれもうっかり締め切りを逃してしまいました。同じような理由で後期の単位も落としそうです。

*2:下の標語は僕が高校の時に作ったやつです。賞品で自転車をもらって、今でも乗っています。

*3:これは現代においては間違っていますが、歴史的にみて間違っているとは言い切れません。俳句は今のように自由ではなく、「575」に強く縛られていましたし、季語はほとんど必須だったようです。そんな中で、俳句から派生した川柳は「季なし俳句」と呼ばれることもありました。

*4:美について定義するのはまた難題ですし専門外です。ここも気持ちで感じ取ってください。読者に頼ってばかりで申し訳ない...

*5:自由律俳句があまりメジャーでない以上、これはほとんど「575」であることと同値です。結局「575」は俳句の必要条件じゃないか、と思われるかもしれないですが、「575」という形式は(いまや)重要ではなく、短文に情報を盛り込もうという努力自体が俳句の特徴である、というような主張です。

*6:わかりやすさは往々にして嘘をはらみます。川柳にも俳句と同じく写生美を追求するものはあり(cf. 井上剣花坊「咳一つ聞えぬ中を天皇旗」)、境界は難しいです。身も蓋もない話ですが、最終的には作者が「俳句」として作るか「川柳」として作るかに帰される問題かもしれません。

*7:軽く俳句と川柳の違いについて紹介しておきます。平均的な俳句が志向するのは実世界での体験です。このブログで書いた通り、普段生きていて「ちょっといいな」と思ったその感情を昇華したものと考えてもいいと思います。(かなり大雑把なものいいではありますが)

一方で、現代川柳は「575で何を言っても良い」となったときにどういうことが言えるか、という発想で作られているように僕からは見えています。

いけにえにフリルがあって恥ずかしい  暮田真名

というような、ぱっと意味は取れないけれど想像力をかきたてるようなものが代表的だと思います。ある種現代アート的だと言えば言えてしまうかもしれません。

現実にあったことが好きなら俳句、現実なんかにとらわれず自由な表現をするのが好きなら現代川柳、というのがざっくりとしたまとめかたでしょうか。

*8:wikipediaにこの句のページがあった、びっくり。 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 - Wikipedia

*9:2020/9/4追記: これ、ちょっと怪しいです。俳句の直系の先祖は「俳諧連歌」と言う形式で、その冒頭の575「発句」が独立して現在の俳句になりました。その発句に、「時候を詠み込もうね」という決まりがあったのが季語の由来らしいです。(山本健吉『俳句の世界』など参照)連歌は和歌から派生したものなので、発句で時候を読み込むということと和歌における題詠は無関係ではないだろうと思うのですが、直接関係があるかのような言い方は不正確でした。

*10:小学校の頃、授業で「滝落ちて...」の句の季語は何か、という問題が出されました。みんな悩みましたが、優秀な同級生が「作者の名前って季語にはならないですよねえ...?」と発言したのが記憶に残っています

*11:2020/9/4訂正。正岡子規の時代には季語を入れることはどちらかというと当然だったので、強く「季語を入れろ」という主張はしていませんでした。

*12:これは当時、季語や575といった俳句の制約を破るような新しい俳句の手法が流行り出したことに対する反対意見でした。制約を取り払おうという一派と残そうという一派が争って後者が勝つのはなかなか珍しいのではないでしょうか。これも「季語」が相応に表現上のメリットを持っていたからだと思います。

*13:もちろん、現代にあっては季節を感じさせない、でも写実美を有する事物も多いと思いますし、無季や自由律もそれぞれ技法として探求されています。

*14:正岡子規曰く、「古池や...」は松尾芭蕉が己の境地に至った記念すべき一句ではあるものの、芭蕉の作品の中でこれが特に秀でているわけではない、と。そう言われてみればそんな気もします。(権威に弱いので)

*15:余談ですが、「ビール飲む」というように普段省かない助詞を575のために省くのはダサくなりがちです。「ビールを飲む」 と余らせた方がましだと思います。(僕も初心者で、今「字余りかっこいい期」なのであまり信用しちゃダメですが)

*16:季語は先ほど述べたように喚起するイメージの量が大きいので、二つあると読み手の意識がごちゃごちゃする、というのが主な理由です

*17:「夏の」が冗長だと考えて三文字余らせることもできます。

*18:形式的には季重なりも解消できます。ところで僕はサッポロが好きです。