blog in 箪笥

やっぱりとりとめもないことを

日記 - 2024/03/31

誘われたので知人と会った。

砂浜に立つと強風に乗って砂が頬を打った。 「今日は富士山は見えないですね」と知人が言った。 サーファーとみられる人が波に揉まれていて、このような季節に好んで海に入る人は専用の暖かい水着があってそれを着ているのか、耐えることに慣れているのかどちらなのか気になった。

実際、遠景は霞んでいてほとんど何も見えなかった。 往路の電車ではその知人に教えてもらった本を読んでいた。他者のわからなさとそれに対処する技法の本であった。

僕たちはともにプログラミングを職業とし、文学を好み、とはいえ文学が大好き! と公言するほどには愛しておらず、小難しいことを考えるのが好きで、しかも同じ本を読んでいた。

僕たちは同じすぎることについて気にしていた。同時に、依然として僕と彼は決定的に分かり合えない存在であった。富士山が見えないので、僕はそういう連想をした。

つまり、差異を横に置いたまま話すことのできる領域が広すぎるのだと思った。たとえばここと富士山を隔てる湾くらいに広い。そして二人とも差異を横に置いておくのが十分に上手だった。

僕は他の、数少ない知人についても考えた。結局、僕はわかる範囲で話すのが得意でわからない範囲に踏み込むのが苦手なのだと思った。わからない範囲に踏み込んだ方がいいのかどうかもわからなかった。好きかどうかで言えば、人間の理解できない部分と向き合うのは嫌いだ。

しかし、同質性が担保された領域の探索ではなく、未知のものへの対処こそが人生を進めるということである気もした。僕と知人の間で話題は尽きなかったが、そこで生起する物事は静的で、たとえば幾何学模様を規則に従って拡大していくような、分散和音をなぞっていくような振る舞いをした。人生の進行とはもっと順次的なものである気がした。もっとも、それは結婚と育児が中心である場合の人生に限定した話かもしれなかった。ずっと同じ時間を過ごす家族にとって、必然的に立ち現れてくる差異に対処していくということがすなわち生きていくという行為で、それは間違いなく尊いことだから。でもそのような人生を僕は少なくとも今選んではおらず、それがいいのか悪いのかについてはわからなかった。

「普段も風が強いのですか?」と僕は尋ね、「こんなには強くないけど、落ち着こうとすると気になりますね」と彼は答えた。

コミュニケーションが成立していた。その向こうで霞んで見えない彼の他者性について。見えたとしても誰も幸福にならない可能性もあることについて。

彼はたくさん本をくれたので、その分僕は彼と同じ度合いを増した。

帰りは4kmほど歩いた。一人で歩くのは楽しい。

『起きられない朝のための短歌入門』の感想を、言うぜ

平岡直子 我妻俊樹 『起きられない朝のための短歌入門』っていう、短歌入門書(?)が書肆侃侃房から出版された。

www.kankanbou.com

↑これ。

11月頭に出た本で、10月くらいに予約して買ったけど、そういうのって初めてかもしれない。大学生のときは図書館と古本屋にばっかり行ってたから。というかそんなに本読んでなかった。

でも世に出たばっかりの本も読むといいですね。

読んだ感想としては、面白かった。けども、全然入門書じゃない。

じゃあなんだというと、対談集です。テーマは確かにお二人の初心者のときのこととか、「短歌ってなんだ」的な話題だったりとか、スランプに関してだったりとか、入門書の目次に出てきそうな感じではあるんだけど、別にそれに対して答えを与えるわけでもないし、何かを提示するようなことすらあんまりなく、それぞれの考えを楽しそうに喋っている、だけ。

というか、よくタイトルを見ると「短歌入門」とは書いてあるけど入門書とは書いてない。「起きられない朝のために、短歌に入門するといいよ」というテーマの対談集なのかも。実は。帯には「入門書」ってどーんと書いてあるけどこれは嘘。


短歌って、今は完全に一種のサブカルチャーというかポップカルチャーで、見よう見まねでやる人がいっぱいいて流行ってる分野ですよね。

短歌を世間に広めようとして俵万智が、あるいは穂村弘が入門書を書くのとはもう時代が違うわけで、「短歌っていいんだよ」「簡単なんだよ」とかいう必要なくて、そんなことみんな知ってて、なんとなく書いて、なんとなく受容されている。

だから、教師はあまり必要とされていない。どっちかというと先輩とかがいるとよくて、ヘラヘラしながら「まあ、俺もよくわからんけど、こう思ったりするけどな」みたいなことを言ってほしいし、話半分で聞きながら、いつまでもわからないままのつもりで書く、みたいなのが標準的作歌姿勢なんだと思う。

いや、まあ、カルチャーセンターみたいなところで、「短歌を学びたい」みたいな需要はある、が、なんか、そういうのはダサいというか、短歌ってそういうことじゃないよな、という方がメインストリームであるようなジャンルになっている。

だから、「短歌入門」が対談集であるというのは、まさにちゃんと今の短歌文化の中から出てきた「入門書」な感じがして、外堀を埋めるようなやり方しかできず、またそれが成功している本だと思います。

思いますっていうか、そういうこと(ちょっと違う切り口だけど)もこの本に書いてあった。

内輪的というか、マニアックというか、短歌すでにやってる人しか分からんやろみたいな話題も出てくるように感じるけど、読者って意外とそういうの楽しめるので、楽しい。

十全に分からなかったとしても、そういう内輪の雰囲気を嗅いで、それに惹かれて入ってくるみたいなことはあるし、身近に短歌仲間がいない短歌初心者とかにはそういうのが一番欲しいものですらあるかも知れない。

僕は俳句を好きでたまに作るけど、きっかけとしては正岡子規の随筆を読んで、彼の家にいろんな人が集まってガヤガヤ俳句を作っている雰囲気みたいなものに惹かれたというのが一番なので、人によるのかも知れないけどそういうことはある。

本の話に戻るけど、総じて言えば、なんか知りたいことは全部聞けた。 特に、よく分からん短歌って結構あるけど、著者お二方はどっちかというとよく分からん歌を作る方の人たちで、作り手が何を考えてるのかとか、分からん短歌の作り手が別の作り手の分からん短歌を見て何を思うのか、とかが部分的にわかった、のでとても嬉しい。

みんなも知りたいこと全部聞こう。

オタク言葉を面白がる。「練りをしまつ」の謎、「結束した」の面白さについてについて。

オタクは言語に聡い。というのは美化しすぎで、何がしか文字情報に執着のあるオタクがテキスト主体のSNSに張り付きがちだというのがより正しい。

だから、オタクが作った言葉には面白いものがたくさんある。

いくらでもあるんだけど、最近ふと気になった言い回しは「結束した」ってやつです。

「ぼっち・ざ・ろっく!」っていう漫画・アニメがあって、そこに出てくるバンド(ロックバンド、とかのバンド)の名前が「結束バンド」っていうのね。 それで、「結束〇〇」みたいな関連イベントが色々あって、それに参加することを「結束する」って表現する。

面白いのはこれが全然珍しい表現じゃないってことで、読んでくださっているみなさんがTwitterに明るい方だとすると、「別に変わった表現じゃないじゃん」って感じると思う。

他にも例えば「響け!ユーフォニアム」を見ることを「響く」って言ったりして、類例がたくさんある。

この現象を説明するとすると「作品やイベントのタイトルの一部の動詞を以て作品・イベントに関わる行為を示す」表現だと言えると思う。

これは一種の換喩(メトニミー)ではなかろうか。換喩っていうのは、「Aに関係する別のものBによってAを指す」表現のことで、例えば「鍋」で鍋料理を指すみたいなのが有名だと思う。「オタク」という言葉も出自としては換喩と言えそう。まず「お宅」で「あなた」を指すのが換喩で、互いを「お宅」と呼び合う奴らのことを「オタク」と呼ぶのも換喩。

そんなふうに換喩は比較的ありふれた現象ではあるけど、「結束する」みたいな感じで文字面から動詞を取ってきて…というのは面白い気がする。それとも探してみればオタク文化以前にも似たようなことはあるのかな。「整う」とか若干そのケがある気もする。

動詞の話繋がりで、変な動詞として「勝つる」っていうのが使われている。「これで勝つる」みたいな。僕の周囲のオタクが使ってるだけかもしれないけど…。

これはなんか活用が変になってる。オタクはすぐに活用をぐちゃぐちゃにする。

僕の解釈としては、「勝つ」を外来語みたいな感じで捉え直して、それに「る」をつけて再動詞化してるんじゃないかと思うんだけどどうだろうか。

「ジャムる」「ディグる」みたいなね。そういう見慣れない場所に「勝つ」を追いやることによってあえての拙さを演出するみたいなことなのかなと思いました。オタクは拙さが好き。

しかも「勝つる」って「〇〇しか勝たん」っていう言い回しを多分下敷きにして、「〇〇しか勝たん」=「〇〇が最高である」→「勝つ」=「いい状態である」みたいな意味の類推を行なっている気がする。どうなんでしょうね。

「勝つ」=「良い」といえば「最高の気分だ」ということの表現として「優勝する」という言い回しがあったけど、これって「〇〇しか勝たん」と関係あるんですか? そのへん有識者がいらっしゃったら教えてください。

「よさみが深い」っていうのもあった。これは[形容詞語幹]+[み]で名詞化する(うまみ、深み…)というやつの変則バージョン。 [形容詞語幹]+[そう](うまそう、深そう…)のような場合に、語幹が一音の場合は語調を整えるために謎の「さ」が入る(よさそう、なさそう…)けど、それを真似して「み」に応用したのが「よさみ」だと思われる。

僕の周りでは「よさみの深まり」なんていう言い回しも聞こえる。これはかなりなんというか、濃いオタクの香りがする。 より無臭に近い「よき」っていう表現が最近(?)流行ってるけど、これも形容詞を名詞化して使っているという点では似ている。「よきですね」なんていう。

形容詞を排して全部名詞にしてしまって、簡単な助動詞や補助動詞でつなげていくようなシンプルな言語が希求されているのかもしれない。 社会全体としてシンプルな文法が選択されていく先端にオタクが位置しているのか、それともシンプルな文法をあえて選択することによって拙さを演出しているのか…。

そう言えば、これは関西方言なのかオタク言葉なのか判別できないんだけど、僕の周囲の話し言葉として「あかんすぎる」というのがある。「せんすぎ」というのもある。「掃除せんすぎて部屋が終わった」みたいな。

[形容詞/形容動詞語幹]+[すぎる](高すぎる、静かすぎる)の変形で、関西方言としては形容詞の活用を失ってしまった「ん」=「ない」を無理に語幹の位置でも使ってしまっている。

さらには名詞でも使っちゃえて、「京都すぎる」みたいにも言える。ここまでくるとさすがに明らかに若者言葉であろうなという感じがしてくる。

これもなんか、文法シンプル化の潮流を感じる例でした。

最後に「練りをしまつ」について言わせてほしい。これは「寝りをする」ということで、寝ることを指す。「します」→「しまつ」については口足らず化で、これもオタク言語で頻出する。よく知らんけど、本来舌とか唇が接触すべきでないところで接触させようという風潮がある。「す」→「つ」もそうだし、「モタク」(オタク)とか「ぽれ」(おれ)とか。 不可解なのは「寝りをする」の方。「寝をする」ならわかる。動詞を名詞化しているだけだから。「釣る」=「釣りをする」と一緒。

それで考えてみると、まず「寝る」の活用を、本来は下一段活用(寝ない/寝ます/寝る/寝るとき/寝れば/寝ろ)であるところを四段活用(寝らない/寝ります/寝る/寝るとき/寝れ)に置き換えて、その上で連用形を使って名詞化して「寝り」になっている。(c.f. 釣り)

四段活用は一番基本的な活用で、その他の活用が四段と混同されるみたいな現象は起きてるぽいので、これもやっぱり拙さの演出で四段が(無意識に)選ばれているということになろうと思う。

オタクの言語感覚って、鋭敏で、面白くて、そして嫌だね……。

誤用と嫌悪感(「耳触りがいい」について)

今日、会社の同期と「耳ざわり」の話になった。

彼が言うには「耳触りのいい言葉」というような用法は間違っている。「耳障り」が正しい。(この「障り」は例えば「差し障り」の「障り」だ)

正しいんだろうけど、僕は「ふ〜ん、ムカつくぜ」と思った。だって「耳触りがいい」って普通に使うし。 だから彼に食ってかかった。

僕はこういうのは「賢そうなことを言った方が勝ち」ゲームだと思っているので、用例検索エンジンを使って明治の用例とかを示した。実際結構見つかったし、有名な作家も使っていた。

でも彼は引き下がらなかった。彼は彼で「耳触りがいい」という言い方にムカついているから。

そんなこんなでやりとりをしているうちに、さっきの僕の反論は全然本質的じゃないなってことに気づいた。


ちょっとここで脱線して「ら抜き言葉」と「れ入れ言葉」の話をさせてほしい。「食べられる」と「食べれる」、「行ける」を「行けれる」というやつだ。

僕の感覚では「ら抜き」はカジュアルな表現として使うけど、「行けれる」は明らかに「間違い」に感じる。

なぜか?

多分、「ら抜き」については「まどろっこしいから省略している」という理由づけが(主観的に)存在する。一方で「れ入れ」の方は「れ」を入れる(主観的に)合理的な理由はない。*1

つまり、用例が一般的かどうかとは関わりなく、「間違っている」という感覚が大事なんじゃないかってことだ。もしくは、「間違っていない」という感覚が。

そこで、僕としては「耳触り」に立ち返って、こいつが(僕にとって主観的に)間違っているのか、それとも(自分を納得させる程度の)合理性を持っているのかはっきりさせる必要が出てきた。

ここから話が複雑になるのでちょっと登場人物を整理する。

①「耳障り」:耳に障る。うるさい。

②「耳触り」:聞いた内容に対する印象。良かったり悪かったりする。

③「耳触り」:耳に触れられた感触。肌触り、手触りなどの仲間。良かったり悪かったりする。

②が今回の被告人だ。③はたった今登場した新人物であり、ここから重要参考人になってもらう。

僕の考えでは①と③は「正しい」。「手触り」に比べて「耳触り」というのはあまり使わないけど、「体の部位」+「触り」という表現は全部ありうると思う。歯触り、足触り、舌触り…。 だから「耳触りがいい」というフレーズ自体は間違っていないはずで、ただ、②とは違う意味を持っている。

③が①の影響で新しい意味を持ったか、①が③の影響で間違った使われ方をしたのが②なんだと思う。

そこで、「耳触りがいい」許容派としては次のような主張をしてみることができる。

②は③の比喩的な用法だ。たとえ①の影響を受けていたとしても誤用とは言えない」

つまり、例えばふわふわの枕みたいな、耳に触れると心地いいものを指して使う「耳触りがいい」という表現を、「聞いた印象が心地いい」ということを表す比喩として使っているんじゃないか、ってことだ。そうだとすれば②の「耳触りがいい」という表現にも一応の合理性はあるように思われる。

一方、これに対する同期氏の反論は

「聞いた内容の印象」のことを「耳触り」という触覚で喩えるのには違和感がある

というものだった。ここにきて、「間違い」の判定基準はこの比喩を許せるかどうか、というところまで煮詰まってきた。

この比喩が成立しないなら、「耳触りがいい」を使う合理的な理由は存在しないし、単に「耳障り」を取り違えて使ったと言われても仕方ない。

変な例を出すようだけど、「目触り」という言葉は存在しない。(目に触ると痛いから)だから、「目触りがいい」という言葉はどう考えても間違いだ。「耳触り」はどうだろうだ?

結論を言えば、僕の負けかもしれない。

耳に触れる感触で「聞いた内容の印象」を喩えられるか? 字面を見ると妥当な気もするけど、感触としての「耳触り」と「聞いた印象」は直感的にはかなり隔たりがある気がしてきた。まだ「肌触り」とかのほうが共通点がある。「肌触りのいい言葉」は比喩として成立するかもしれない。

ここまで考えて、「耳触りがいい」にムカついていた同期の感覚がわかった。彼が正しい。

でも僕は負けを認めるのはムシャクシャするので、「明治から使われている誤用なら、現代においてはもう誤用とは言えない」って強弁してお茶を濁しておいた。

*1:「れ入れ」の仕組みに一応触れておく。日本語の動詞には対応する「可能動詞」を持つものと持たないものがある。例えば「行く-行ける」「流す-流せる」など。一方で、可能動詞を持たない動詞(「食べる」とか)では「れる・られる」をくっつけて(食べられる)可能表現にする。後者の動詞の方が多いから、可能表現には「れる」がつく、という感覚ができてしまって、「行ける」などの可能動詞にも(重複して)「れる」をつけてしまうのが「れ入れ」。逆に、「れる」をつけるタイプの可能表現を無理やり可能動詞っぽくしたのが「ら抜き」だ。雑に言えば「行ける」と「食べれる」って似てるね、ってこと。「ら抜き」のいいところは受け身と可能を分けて表現できるところ。「食べられる」だと捕食されているのか、何かを食えるのかわからない。

「エモい」は何が画期的か・「エモい」と戦うとき僕たちはなにと戦っているのか

「エモい」への批判・擁護もブームが過ぎたけれど、多くのひとが「エモい」という言葉を使い続けているし、また多くの人がそれを嫌悪し続けている。

僕は「エモい」にムカつく方の人間なので、この言葉の何が悪いのかについてずっとウジウジ考えていて、最近ちょっと思い付いたことがあるので書いてみる。

まずよくある「エモい」批判*1をあげつらってみる。

安易に使われ過ぎ。何見ても「エモい」って言えばいいみたいになってるじゃん。

これは当たっていると思う。でも当たりつくしてはいない。安易に使われまくっている言葉は他にもたくさんある。代表的なものが「なんとも言えない」とか。

どういう言葉であっても安易に使えば価値が下がるのは当たり前で、丁寧に使い分けられた言葉の方がいいに決まっている。 だから「なんとも言えない」もかなり憎まれるべき言葉遣いだと思うけれども、やっぱり「エモい」に比べると集めている憎しみの量が違うんじゃないかと思う。

「何ともいえない」みたいな安易な感想を述べる層ですら「エモい」のことは嫌っている気がする。(そんな気がしませんか?)

そこで、僕たちは「エモい」の何が特別なのかについて考えなければいけない、ということになっていく。

「エモい」みたいな品の低い言葉じゃなくて日本語には○○という美しい言葉があるのに...

この「言い換え」論法は最悪だ。何も説明していないし何も当たっていない。どうしてその既存のレパートリーに「エモい」は参加資格がないのか? という話をしているんだこっちは!

しかし、この批判は「エモい」反対者の心理の描写としては割と秀逸なんじゃないかと思う。

反対者が「美しい言葉」を使ってほしい内容について、使用者が「エモい」を選択するから反対者はいらだつのだ。

しかし使用者にとって話は逆なのだ。「美しい言葉」は彼らのレパートリーへの参加資格がないし、「エモい」にはある。

「書き言葉」と「話し言葉」という概念がある。「話し言葉」は日常生活でつかわれる言葉であり、人と人のコミュニケーションの道具としての言語である。「書き言葉」は表現されたものとしての言語である。現代においてこの二者は接近しているけれども、それでも全く違うものとしてあり続けている。

例えばこのブログはかなり話し言葉に近い文体で書いているけれども、僕が他人と話す言葉遣いとは隔たりがある。あくまでブログに書かれた言葉は書き言葉だ。

書き言葉と話し言葉の境界は個人差があって、恋人に「愛している」と日常会話で伝えられる人もいれば、それが芝居がかっていると抵抗感を覚える人もいる。後者の人にとって「愛している」は書き言葉であって話し言葉ではない。書き言葉というのは発話者にとって「表現」になってしまうから、照れをともなったりしっくりこなかったり、とにかく使いづらいものだ。

「愛してるよ」よりも「大好き」の方が君らしいんじゃない?

という宇多田ヒカルの歌詞は、表現の言葉ではなく生活の言葉で話そうという、表現上の愛ではなく現実の愛について語ろうという、そういう歌詞なんですねえ*2...。

それで、ある種の人々、特に表現を愛する人たちは書き言葉をカギ括弧でくくって*3話し言葉へ登場させるというような芸当が好きだ。

「郷愁を感じ」ますね、などというような言葉を普通に使う。

しかし、そうでない人にとっては「郷愁」などというのは日常会話に出てくることのない語彙なのだ。使うときはそれなりのもったいをつけて「いわゆる『郷愁』」という感じを出さないと気持ちが悪いのだ。 そもそも話し言葉というのはそんなに豊かな語彙を必要としない。人間の対面コミュニケーションはむしろ固定的な言葉を好むし、日常に出現する具体的なものを指示できればことたりる。

「エモい」みたいな品の低い言葉じゃなくて日本語には○○という美しい言葉があるのに...

○○として挙がるのはみんな書き言葉だ。「エモい」によって表される心の状態は書き言葉によって表されるべきだ、というのが批判者の気持ちなのである。

一方で「エモい」が画期的なのはそれが話し言葉であることによる。エモい物事をそれと表現する手段はずっと書き言葉に独占されてきた。「情緒」が...「郷愁が」...「切なさ」が...「胸がいっぱいになった」でさえ、話し言葉として使う人は少ないのではないだろうか。 

話し言葉は「エモい」を獲得し、人々はカギ括弧にくくられた表現から自由になった。何の照れもてらいもなく「エモい」がすべてを言い表してくれる。

「エモい」の獲得には背景がある。そもそも、「エモい」で表されるところの心的状態というのは非常に個人的なもののはずだ。感情を他者と共有するようなことはできない。だから、コミュニケーションの道具としての話し言葉は「嬉しい」「悲しい」「最悪」「草」などの基本感情を備えれば十分だし、そうするしかなかった。

逆に、(一部の)芸術は個人的な経験・感情を表現しようという意欲に燃えているから、書き言葉が感情を表す語彙を豊かしていくのもまた自然なことだった。

芸術に「個人的な感情の表現」が出現すると、その作品自体は具体的に参照可能であるから、それらの作品を形容するような語彙があれば原理的には話し言葉として使用可能だ。しかし、芸術がある程度高尚なものという感覚がある時代には、芸術への言及もまた書き言葉だった*4

「文学的」という言葉がある。「文学的な表現」「雨の音が文学的」などと使われるとき、この語は「エモい」と非常に似通う。誰かの表現してきた「文学」を総じて形容することで、そこで取り上げられるような微妙な心的状態、およびそれを引き起こすような出来事を指して用いられる。これは俗っぽい用法だがそれでも書き言葉だ(友人との日常会話でカギ括弧なしに「文学的」という語をつかえる*5だろうか?)

しかし、アニメや漫画、ラノベ、JPOPその他いろいろが大衆の娯楽芸術として出現した。これらは「みんなが見ている日常的なもの」であるから、それを形容する言葉は話し言葉でありうる。

「萌え」は話し言葉だったが、自分の感情に言及するものだった。

「エモい」は物事の形容だった。この音楽はエモい、このアニメはエモい。それと相似のこの出来事はエモい。この風景はエモい。(そういうときの自分の感情もエモいと表現するけど、どちらかというと派生的な用法だと思う)

だから、魚が大きいとか、気温が高くて暑いとかいうのと同じようなレベルで何かをエモいと言うことができる。エモいものを指してエモいと言っているだけなので事実の共有であり、自己表明ではない。自己表明でないから何の心的ハードルもない。実は非常に個人的で複雑なはずの感情の共有が、大量の大衆芸術によって形成されたカタログ的な感情に関する合意を通して間接的に可能になっている。

「エモい」批判者がいらついているのは、そのような簡易的で近似的な感情表現についてだ。複雑な個人的感情が、既存の型にはめこまれ近似されている、そういう鈍感さについてだ。アニメあるあるとしてではなく、自分の感情にちゃんと向き合って言葉を紡ぐべきだという倫理だ。

しかしこれは押し付けであって、飯を食い終わった人間に「感想文を書け」と原稿用紙を突きつけるような蛮行だ。飯はうまい。夕暮れはエモい。それはそれでいいのだ。

批判者に対して意地悪な言い方をすると、自分たちが表現のフィールドとしている個人的感情が話し言葉に侵されることへのいらだちがあるのだ。創作者でなくても自分の表現にプライドをもっている人はたくさんいる。僕をふくめてそういう人間は、「エモい」によって自分の土地が土足で踏み荒らされているような気分がする。そんな簡単な言葉で言い表せるはずがない、というおごりがある。

いずれにせよ、僕の結論としては「『エモい』は言い換えられない」ということで、批判者としては白旗を上げることになる。

「そんなことでは日本語が、日本人の感情が貧しくなるのではないだろうか?」

しかし、話し言葉というのはそもそも限定的なものなのである。こんにちは。今日は暑いね。または寒いね。または過ごしやすいね。元気? まあまあかな。そうやって我々は生きているし、それが貧しいってことはない。

ただし。

これだけでは溜飲が下りないのでただしておくと、以上の結論は「エモい」が話し言葉として使われているということを前提としたものだ。

書き言葉の領域に持ち込まれたなら話は全く変わってくる。なんらかの表現意図を持った人間が「エモい」を使用した場合、 「他にも〇〇や××という言葉が既にあるのに」という言いがかりは有効性を持つ。

表現において、安易に使われていい言葉などない。「エモい」を使うなら、明確にそれを選び取る意識がないといけない。これだって押し付けだけど、相手は表現者で、表現というのは押し付け合いだ。許せないなら絶対に許してはいけない。

だから、繰り返しになるけど、話し言葉としての「エモい」には文句を言わないでおこうというのが僕の結論です。

*1:あくまで僕の論を進める材料として挙げるので、既存の「エモい」批判を網羅する気はないです。あらかじめご了承を...

*2:個人の感想です

*3:別に書き言葉だけでなくあらゆる言葉をカギ括弧でくくるんだけどね。「エモい」だって直接触りたくはないから僕はカギ括弧でくくらないと使えない。

*4:と言ってはみたものの、「ロマンチック」などは話し言葉として通用しているな…。

*5:「文学に関わる」という意味ではなく、「文学で表現されるようないいかんじの」という用法において

吉本隆明『言語にとって美とはなにか』第一章を読む! ぜひ一緒に!

 吉本隆明『言語にとって美とはなにか』を読んで感銘を受けたので、解説のようなノートのような何かを書こうと思います。

www.kadokawa.co.jp

 タイトルの通り、「言語表現において、どういう表現が高い価値を持つのか?」ということがテーマです。

 例えば、自分の表現に「なにかが足りていない」と感じるとき、何が足りていないのか。ある作品に感心したとき、その作品のどこが高度なのか。そういう疑問を持つことはよくあると思います。こういう疑問に、自らの素朴な知性で答えることもできるのですが、何らかの思考の標準があれば力強いことこの上なしです。そういうものをこの本は与えてくれます。

 序文に曰く  

わたしは、文学は言語でつくった芸術だという、それだけではたれも不服をとなえることができない地点から出発し、現在まで流布されてきた文学の理論を、体験や欲求の意味しかもたないものとして疑問符のなかにたたきこむことにした。(中略)もんだいは文学が言語の芸術だという前提から、現在提出されているもんだいを再提出し、論じられている課題を具体的に語り、さてどんなおつりがあるかという点にある。 (p13 序)*1

 すなわち、「言語にとって美とはなにか」(≒価値のある言語表現とはどんなものか?)ということに関して0から普遍的な一大理論を築いた上で、その理論が十分に役に立つ(創作者・批評者にとっての武器になるのか? これまでにアプローチし得なかった部分にたどり着くことができるのか?)ことが彼のゴールということです。かっこいいですね。

 さて今回は七章構成の中の第一章を読んでいきます。この章で導入される概念が、一冊を通しての主要な道具になります。そういう意味でキャッチーな章です。二章以降でその概念を使って「文学」に踏み込んでいきますが、それについては後日やる気が出たときに書きます。

自己表出と指示表出

キーワード!

 フライングをしてキーワードを先に紹介します。「自己表出」と「指示表出」です。これらが本書の主たる武器です。第一章はこの二つの概念を導入し、説明することをテーマとしています。

 吉本と一緒にこれらの概念を手に入れていきましょう。

本論

 彼と、読者である我々は「文学は言語の芸術だ」という前提しか持っていないため、「言語表現」とはどういうものか? というところから考え始めるしかありません。言語の本質的な性質を理解し、そこから言語の価値について考えていこうというのです。

「言語とはなにか?」

 この問いへのアプローチとして、吉本は言語の発生について考えます。言語未満の言語が「言語」になったとき、本質的にはどんな飛躍が遂げられているのか?

 吉本はマルクス主義の言語起源論をはじめとするいくつかの理論を紹介し、ある部分を評価し、別の部分を否定しながら次のように主張します。  

これ(引用者註:社会の高度化)は人類にある意識的なしこり・・・をあたえ、このしこりがある密度をもつようになると、やがて共通の意識符牒を抽出させるようになる。そして有節音が自己表出(selbstausdrücken)されることになる。 (pp26-27)

 このようにして吉本と我々は「自己表出」という概念にたどり着きます。

 次の図(絵)を見てみてください。

言語段階の発達

 ①は言語以前の言語が発せられた場面を仮定したものです。発話者はりんごを見てある心的状態を持ちます。ただ、その心的状態はかなり曖昧です。彼はまだ「実」という語も概念も持ち合わせていないので、彼の前に立ち現れる世界は我々の世界よりずっと混沌としています。

 心的状態が引き金となって、彼は反射的に言語以前の声を発しました。この声は明らかに現実対象(りんご)を直接指示しています。

 以上が「言語前夜」の素描です。発話者は、僕は原始人を想定して絵を描きましたが、例えば現代の幼児などを想定しても問題ないかと思います。

 次に②を見てください。これは言語を発している場面です。時代が下ったのか、年齢を重ねたのか、とにかく発話者の意識はより高度に、より強固になっています。

 彼はりんごを見て、①と同様にある曖昧な心的状態を抱きます。しかし、次の瞬間にはその心的状態はより高度に明確になり、「ミ(実)」という音声に抽出されます。

 これが「このしこりがある密度をもつようになると、やがて共通の意識符牒を抽出させるようになる」ということのおおよその意味(の僕なりの理解)です。

 赤いうねうねの矢印を見てください。もやもやとした「意識のしこり」は高度になっていって最終的に言葉になります。これが、意識が意識自身を言葉として抽出する「自己表出」の過程です。(「意識のしこり」は、本書中では未発達な意識を指して使われていますが、我々が普通に発話するときにも未分化な意識から高度な意識を経て単語にたどり着くという過程が存在すると思います)

 次に青い点線を見てください。言語以前の音声で対象を指し示すとき(①)、その音声は「まさにその現実対象」しか指し示しません。そのりんご、という訳です。

 しかし、「ミ」という言葉で現実対象のりんごを指し示すとき(②)、その言葉は現実対象の背後にあるより一般的な「ミ」をも指し示します。つまり、言語が「指示されたものの象徴」を指示する機能を持ち始めます。言語のこの面を指して「指示表出」と呼びます。難しい言い方になりましたが、「実」という言葉は「実」を指示するよ、という直感的なことを詳しく言っただけです。

 ここに来て、我々は言語を「自己表出」と「指示表出」の二つの側面から捉えることができるようになりました。「自己表出」は表出意識が高まっていって、最終的にある言葉が得られる、という発話者の内面に光を当てたものです。「指示表出」は表出された言語が何を指示するのかという機能に光を当てたものです。

 これらはもちろん別々の二つのものではありません。図②を再び見てみれば、現実対象を指示しようという動機が「自己表出」を生みます。同時に、「自己表出」によってある単語「ミ」にたどり着かなければ「指示表出」は存在しない訳です。

 ここで、僕の書いた図だけではなく吉本隆明の書いた図も見ておきたいです。次の図は、僕の図の②に相当します。(というかこの図に相当するものとして図②を描きました)

図2. 吉本隆明オリジナルの図(p35)

 簡素にして格好のいい図ですが、「指示表出」の矢印がどこを指しているのかが分かりにくいです。僕の解釈では、この図はベクトルを意識して書かれたものだと思っています。

表出のベクトル図

 「意識」と書かれた点から「音声」まで伸びる実線の矢印が総合的な表出全体を表していて、その表出の「現実対象へ向かう成分」が「指示表出」、「意識の高度化へ向かう成分」が「自己表出」、という気持ちであろうと思います。はっきり言って、こういう微妙に理系っぽい図を書かれるとめちゃくちゃ混乱します。が、ないよりいいですね。僕の図と見比べて、わかりやすい方を摂取してください。(僕の図と矢印の位置が違いますが、図の意味がちょっと違うからです)

 さらに自己表出が高度化したのが「図1. 言語発達」の③です。この段階では、現実対象が目前に存在しなかったとしても「指示表出」であることができる、すなわち何かを指示することができます。

 何かとは現実対象の「像」です。例えば実が目の前になくても「実」という言葉で実(という概念・像)を指示できるということです。吉本によれば「ここで有節音声は、はじめて言語としてのすべての最小条件をもつことになる」(p35)のです。

 別のところから引用します。  

こういう言語としての最小の条件をもったとき、有節音はそれを発したものにとって、自己を含みながら自己に対する存在になる。またそのことによって他に対する存在になる。反対に、他のための存在であることによって自己に対する存在になり、それは自分自身をはらむといってもよい。 (p28)

「自己を含みながら」というのは言語というものが「自己表出」であり、自らの意識の反映であることを言っています。「自己に対する」というのは、言語が現実対象との直接の結びつきから離れ、代わりに像と結びついた「もの」として存在し始めることを言っています。

 やや難しいですが、我々は例えば「実」という言葉を現実対象がない場面で使ったり、その言葉について考えたりすることができます。これは、言葉が発話者から独立した、発話者に対するものとして存在しているから可能なことです。

「そのことによって他に対する存在になる」というのは指示表出の話です。言語が何かを指示するのは、他者に何らかの働きかけ(情報の伝達)を行うためだからです。

 後半は以上のことを順序を変えて言っているだけで、指示表出の必要を動機として自己表出が促されるということですが、いずれにせよ言語は発話者の意識の反映でありながら、発話者にも聴者にも対する独立したものであるのです。  

言語の発達

 ところで、ここまでの議論は原初の言語というようなものを念頭に置いていました。しかし、現代の我々も、「どういう言葉で言えばいいだろう?」というような気分になったとき、そしてある言葉に辿り着くとき、やはり自己表出に直面していることになります。

 一方で、我々と図の発話者とでは明確に違うこともあります。それは自己表出の水準です。すなわち意識の高度さです。②の発話者にとって、「ミ」という音声への到達には相当な意識の励起が必要であったにもかかわらず、我々にとって「実」あるいは「りんご」という語で現実対象としてのりんごを指示する際の自己表出の高さは非常に低いものです。

 りんごという概念は基本的なものであり、ほとんど迷わず「りんご」という語でりんごを指示します。この表出はほとんど全くの「指示表出」だ、と言っていいかもしれません。

 我々にはより高度な自己表出があります。吉本隆明が「自己表出」というときの自己表出の高度さを考えてみてください。そこまででなくてもいいですね。なにかをうまく言い表そうとした経験と、そのときに到達した言葉を思い浮かべてみてください。それが我々の自己表出の水準です。

 また同時に、自己表出の水準が高いことによって我々は多彩な指示表出を持っています。例えば我々は「自己表出」という概念を指示することができますが、図②の人には絶対にできないことですね。

 次は、表出が発達していくときにどういうことが起きるのか、です。

表出された有節音声はある水準の類概念をあらわすとともに、自己表出はつみかさねられて意識の構造をつよめ、それはまた逆に類概念のうえにまたちがった類概念をうみだすことができるようになる。 (p38)

 というように、自己表出の発達と指示表出の発達には関わりがあることが示唆されます。自己表出は意識の反映ですから、意識に存在しない概念を表出することはできず、すなわちその概念を指示する指示表出もあり得ないことになります。

 つまり、言語の発達と意識の発達というのは強く関連しています。 結論から言えば、吉本の主張は以下の通りです。

  • 自己表出は、通時的な意識構造の累積を反映する。
  • 指示表出は、共時的な社会環境や人間の関係や幻想を反映する。

 これは概ね直感に沿っているように思えます。(吉本は自分の直感を頼りに理論を構築しているので当たり前かもしれませんが)

 別の言い方をすれば、自己表出は積み重なっていくものなので、その「高さ」が問題になります。意識が高度化するのに従って、より抽象的な言葉や複雑な言葉を表出できるようになっていく、その高度さのことです。

 一方、指示表出は各時代での「広がり」が問題になります。各時代、各環境にどのような事象・現象が存在して、それが言い表されているかということです。

 この二つの事柄はもちろん無関係ではなくて、高度な自己表出があるからこそ、より多彩な指示表出が可能となり、多彩な指示表出によって意識が強化され…という関連の中にあります。

 やや注意したいのは、「自己/指示表出」というのが「自己/指示表出性の強い言葉」というような意味で使われているのか、あるいは同一の言葉の自己表出としての面・指示表出としての面のそれぞれに着目して言ったものなのかがいまいち曖昧だということです。

 前者の解釈はどういうことかと言えば、例えば現代若者言葉の「〇〇み」(よさみが〜)という言葉は自己表出性の大きい言葉だと思いますが、これなどは現代までの自己表出の流れの積み重なりを反映しているということになります。また例えば「スマホ」「wifi」などのたくさんの新しい名詞(後で出てきますが名詞は指示表出性が強いです)が使われるようになったのは社会のデジタル化が進んだから、というように言えます。

 一方で、後者の解釈を取れば、「〇〇み」という言葉の自己表出の面は通時的な積み重なりを反映しているが、一方この言葉が何を指示するか(「よさ」が指示せず「よさみ」が指示するところはなにか)ということは、結局その指示概念を共有する(若者の)共時的・社会的な合意に負うところが大きい、というような考え方もできます。

 この二種類の読み方はそもそもそんなに別のことを言っているわけではないですが、このあたりから「自己表出」「指示表出」という言葉が割と広く曖昧に使われていくので、ややしつこく言ってみました。

 どちらかというなら吉本は前者の意図で言っている気がしますが、両方のニュアンスが混ざっているという感じで理解するのがいいかなと思います。

 とにかく、時代と共に自己表出は高度になり、それに従って指示表出で支持される範囲が広がっていきます。

残りの話題

 ここまででいわば一章のメインパートは終わりですが、次章以降への準備として次の二つの話題が取り上げられます。すなわち、「品詞と自己表出・指示表出の関係はどのようなものか」ということと、「音韻・韻律と自己表出・指示表出の関係はどのようなものか」ということです。

品詞

 私たちは名詞や動詞、助動詞、助詞など様々な品詞で文を構成しますが、その中には自己表出性が強いもの(自己表出としてのアクセントをひいて現れる言語(p49))と指示表出性の強いものがある、と吉本は言います。 無論、両者は単独で存在するものではないので、傾向としての話です。

 吉本は和歌中に用いられる品詞を例示して解説するのですが、それは実際に読んで確かめていただくことにして、ここではもう少し簡単な例で行こうと思います。  

  1. 象は鼻が長い
  2. 象の鼻が長い
  3. 象は鼻が長かった
  4. 象は鼻がすごい
  5. 象は足が長い

 a〜cは少しずつ違いますが、このような差は、発話者の意識の差が表出の差となったものだというのです。指示内容ももちろん少しずつ違うのですが、それよりもその内容に乗っている表出意識が違うのだ、ということです。

 一方で、d,eはそもそも「言っていること」が違います。「鼻」と「足」では指示する像が違います。「すごい」と「長い」も喚起するイメージが違います。

 これらから、助詞や助動詞は自己表出性が強く、名詞や形容詞は指示表出性が強いということを主張するのに大きな違和感はないと思います。 また、指示表出性の強い名詞や形容詞のうちでも、形容詞は比較的自己表出性も強いというような差があることも納得できると思います。 bとcを比べれば、少しの差ですが助詞より助動詞の方が指示表出性が強いと言えそうです。

 以上、法則というよりは経験則ですが、吉本は品詞を自己表出性の強い順に次のように並べます。  

 感動詞  助詞  助動詞  副詞  形容詞  動詞  代名詞  名詞

 実感と合致しているでしょうか? (この結論をもって学術的な結論としようというような野望は吉本にもないので安心してください。自己表出・指示表出という概念を使ってみるとこういうふうになるよ、というデモンストレーション的なものだと思います)

韻律と音韻

 最後に、韻律と音韻の話をします。

 吉本は発音された言語のことを「有節音声」と呼びます。言語の成立条件として、それが区切りをもっていることは必須だからです。

 区切りを持つ音声には、「どう区切られているか」と「各区切りでどの音声が採用されているか」という二つの特徴が想定できます。 日本語に限定して言えば、何音の区切りがどう並んでいるか(2音なのか3音なのか)ということと、その区切りの中の言葉が「あ」なのか「く」なのか「ね」なのかということです。 この二つのことをここで「韻律」と「音韻」と呼びます。

 吉本は「原始人が祭式のあいだに、手拍子をうち、打楽器を鳴らし、叫び声の拍子をうつ場面を、音声反射が言語化する途中に考えてみた(p47)」と言います。この想定が歴史的に妥当かどうかはそんなに重要ではなく、言語を使う我々の原風景としてそのようなものを想定すれば良いということです。

 この場面において、打楽器のリズムになぞらえられるような音節の区切りが発生し、これが韻律となる一方、その各音節で具体的に発される音が音韻となるということです。

 ここで吉本はこう言います。  

このような音声反応が有節化されたところで、自己表出の方向に抽出された共通性をかんがえれば言語の音韻となるだろうが、このばあい有節音声が現実的対象への指示性の方向に抽出された共通性をかんがえれば言語の韻律の概念をみちびくことができるようにおもわれる。だから言語の音韻はそのなかに自己表出以前の自己表出をはらんでいるように、言語の韻律は、指示表出以前の指示表出をはらんでいる。(p47)

 わ、わからね〜〜〜〜。逆じゃない? ある音声の指示対象を決定づけているのは音韻以外にあり得ないし。

 ……と初見時に思って、ずっと腑に落ちていなかった箇所です。

 今はちょっと理解が進んできたので、頑張って説明を試みます。

 まず、今我々が想定している原始人の発する音声は言語以前のものです。ですから、例えば火を囲んでいて、火を指して「アウアウ」という音声を発したらそれは火を指示するという程度の指示性です。というか、発されたあらゆる音声は現実対象への反射としてしか存在しないので、音声はまず初めには指示表出以前の指示表出として存在します。またこのとき、音韻が任意であるときには音声はまず韻律としての共通性を持つことになります。

 それを基点として、意識にあるしこりが生じるに従って音韻が共通性を持ち始めます。これが自己表出の萌芽な訳ですから、やはり音韻が自己表出以前の自己表出を孕むということが納得されます。

 またこういう考え方もできます。一旦先ほどの祭式の場面から離れて、言語以前の言語(音声)で何らかのやりとりが行われる場面を考えてみます。これは対他の音声=指示表出的な音声です。ここで例えば、音声が二語文的に発されるという想定をしてみます。「アウア、アウアウ」というようなことです。

 このとき、前半・後半が主語・述語に対応するというような未熟な統語的性質が獲得されている場面を思い描くことができます。これは指示性(対他)のために獲得された共通性な訳で、指示表出以前の指示表出を孕むというのも納得できそうです。

 まとめると、韻律−指示表出という関係は少し直感的でないですが、少なくとも音韻は自己表出を契機として生まれるものです。自己表出の高度化によって様々な音韻を備えた単語が生じれば指示表出の範囲は広がるのですが、それは音韻が出来上がった後の話です。

対象との直接の指示相関性をうしなってはじめて有節音声は言語となったため、わたしたちが現在かんがえるかぎりの韻律は、言語の意味とかかわりをもたない。(中略)リズムが言語の意味とかかわりを直接もたないのに、指示の抽出された共通性とかんがえられることは、言語がその条件の底辺に、非言語時代の感覚的母斑をもっていることを意味している。 (p47)

 吉本自身もすっきりしないようなことを言っていますが、僕の意見としては、前述したように韻律の指示性というのは統語的な雰囲気として残されているような感じがします。

 例えば和歌・短歌において各句にどんな語が配置されるか、あるいは各句にある単語を置いたときにどういう風味が添加されるかということには一定の共通性があるように感じます。それによって例えば「草枕」が第三句に出てきたら四句への枕詞であろうとか、そういう示唆が得られるので、韻律の指示性ということはそのように現れるのだと思います。

 これは邪推ですが、吉本が韻律について考えたときに、「これは自己表出に関係するものではない」という問題にまず直面したのではないかと思います。日本には定型詩があり、決められた韻律に語を並べるのであって、韻律は発話者の意識の発露ではなく既存のものです。

 それにもかかわらず韻律は詩に何かを付与します。「何か」とは? 自己表出でないなら指示表出であろうか、と考えてみたら「そうだ」と納得されたのではないでしょうか。

 さて、ずいぶん長くなってしまいましたが、今回はこれで終わりです。

 ここまで読んでくださったんですか? 本当にありがとうございます。ぜひ『言語にとって美とはなにか』を買って読んでみてください。

*1:引用元:吉本隆明『言語にとって美とはなにか』角川文庫, 1982年. 古本屋で買った古い版なので、最新の版とは齟齬があるかもしれません、すみません。以降のページ数は全て同書からの引用です。

「群来る」の活用と用例について調べてみた

先日、小樽市総合博物館さんが以下のようなツイートをされていました。  

「群来(くき)」とは鰊などの魚が産卵のために沿岸に押し寄せることを言います。春の季語で、俳句での用例は知っていましたが、生きた単語として使われているのを見るのは初めてで少し興奮しました。

とりわけ興味を惹かれたのが「群来た」という動詞で使われている点です。 自分の勉強不足かもしれませんが、俳句においては名詞として使われているところしか見たことがありません。

どんよりと利尻の富士や鰊群来 山口誓子

これについて後日補足のツイートがありました。

このツリーで引用されている文献は以下の二つです。

くき ニシンの大群が沿岸に押し寄せて産卵するときは付近一帯は白子のため、海水が米のとぎ汁か牛乳を流したように白色の状態となる。この産卵動作を群来(くき)るという

北浜仁『ニシン場の用語』1987、「北水月報」44(前述ツイートより孫引き)

昨十三日午前十時過ヨリ鰊群来セシガ

『西川家文書』1980、小樽市総合博物館蔵

以上でわかるのは、「群来」には少なくとも二つの動詞が存在するということです。「群来する」「群来る」ですね。 「群来する」のように「名詞+する」という複合動詞は珍しくない(料理する、発見する…)一方、やはり「群来る」はちょっと独特な感じがします。

博物館さんが「群来た」と表現されていることからわかるように、この動詞はどうやら上一段活用*1のようです。

 群来ず/群来て/群来る/群来るとき/群来れば/群来よ

という活用です。「群来る」という動詞に考えうるもう一つの活用は五段活用で、

 群来らず/群来りて(群来って)/群来る/群来る時/群来れば/群来れ

という活用ですが、こちらではないということです。名詞が五段活用の動詞に派生するというのは(若者言葉がすぐに思い浮かびますが、それ以外でも)しばしば起こるのではないかと思います。(若者言葉について書かれている文献はいくつか見つけたのですが、近代以前にどうだったかに関しては自信がないのでどなたかご存じだったら教えてください!)

 料理→料る/コピー→コピる など

そんなわけで、「群来」という名詞が先にあって動詞がそこから派生したとすると五段活用になる気がするのですが、そうではない。やや不思議に思ったので、本当に「群来る」には上一段活用しかないのか? (五段活用は存在しないのか?)ということを検証してみます。

検証に使うのはこちら! 

次世代デジタルライブラリー

国立国会図書館デジタルコレクションで提供している資料の中から、著作権の保護期間が満了した図書資料・古典籍資料全部(約33万6千点)が検索可能です。

すごい!

さっそく五段活用に特有な活用形「群来っ(た)」や「群来ら」「群来り」「群来れ」などで検索してみます!

…が全然ヒットしません…。

唯一見つかった用例がこちら

鰊の群來らない理由は、潮流にあるのか、水溫にあるのか、それとも鰊の習性の變化にあるのか、日本の水產試驗所では、まだ的確な研究に到達してゐない。

河東碧梧桐『山を水を人を』1933、日本公論社

河東碧梧桐は四国出身の人ですから、北海道方言を不正確に活用させているのかもしれません…し、ひょっとすると彼が話した現地の人が五段で活用させていたのかもしれませんが、その辺は真実は分かりません。 少なくとも書き言葉としては五段活用はほぼ存在しないという結果になりました。

一応、上一段活用の用例があることも確認しておきます。

おと〻へ此処に鮸?*2か群来た〔蝦夷方言、藻鹽草〕  群来(クキ)ハ方言なり

『俚言集覧』1990、村田了阿 編 井上頼圀・近藤瓶城 増補
https://lab.ndl.go.jp/dl/book/991569?keyword=%E7%BE%A4%E6%9D%A5&page=211

その麓のあたりとおぼしくて、けふりのほそうむすひたつを、今や鯡の群來ぬらんかしと戯れり。

菅江真澄『ゑみしのさへき』1932、秋田叢書刊行会、「秋田叢書 別集」 第5
(原典は1879年)

少し調べたところ、菅江真澄というのは江戸時代の旅行家で、上記の文献は北海道に旅行した際の日記のようです。ゴミを燃やしている焚き火の煙を見て「もう鯡(にしん)が群来ているみたいだね」と冗談を言っている場面で、面白いです。(この日は水無月二日なので群来の季節ではないですね)

このほかにも上一段で活用させている例はたくさん見つかったので、文献を見る限り「群来る」は一段活用だということで間違いがなさそうです。

「クキル」という動詞が先に存在して、その連用形である「クキ」が名詞として使われるようになったのではないか? などと妄想されますが、僕は専門家ではないのでなんとも言い切れません。

釣る→釣り/踊る→踊り みたいな…

最後に、(往生際悪く)現代での「群来る」の活用について調べてみます。 意外なことに、現代の人々は五段活用と一段活用を両方使っていることがわかりました。

「群来た」の検索結果(2022/03/21) f:id:tancematrix:20220321175441j:plain

「群来った」の検索結果(2022/03/21) f:id:tancematrix:20220321175600j:plain

まあ、これは「群来た」(上一段)が標準的な活用で、「群来った」の方は「群来」という名詞から最近新たに派生した「若者言葉」だと考える方が妥当そうです。あくまで印象ですが、釣り人の間で使われている言葉のようです。   以上!

*1:ここでは口語文法の上一段を指します。文語文法において、「群来る」が上一段なのか上二段なのかというのは別の興味深い問題です。すなわち終止形が「クキル」なのか「クク」なのか? ということです。しかし、北海道の漁業が始まったのは幕末ごろなので、その頃以降に生まれた方言(口語)だとすればその頃には上一段と上二段は合流していて意味のない問いであるのかもしれません

*2:漢字が明瞭に読めず。気になる方はURLから原典を見てみてください